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もう誰も詳しく語る人はいなくなったが、私の父方の祖父は遊郭を経営していた。
現在のあま市美和町木田というところの農家で、庄屋であったらしい。そこの三男坊として生まれた祖父又三郎さんは、分家分として相続した田地田畑を売りさばき、名古屋市港区稲永の遊郭街で福島楼という遊郭を始めた。海運が盛んであった大正の中頃らしい。その海運業に従事する船主や水夫達が主な客であった。かなり流行っていたようで、父は酒に酔っ払うと、
「お金を預金するために、銀行が車で迎えに来た」
「親父の机の上に置いてあった札束から、何枚か取っても、親父は何も言わなかった。金のことで怒られたことは一度もなかった」
九人兄弟の末っ子だった父は悪ガキで、近くの畑からスイカを盗んで来たり、当時は澄んできれいだった名古屋港で船にいたずらをしたりして遊んでいたらしい。そんな父も小学生の低学年の頃は学校に行くのが嫌で、両親や兄弟達を困らせた。しかし、当時、父には専属の婆やさんがいて、お花さんという名の婆やさんに背負われて学校に行った。
このことはしょっちゅう聞かされていたが、
「なんの商売をしていたの?」
私の素朴な疑問には、
「大人になったら分かる」といって中学の頃までははっきり言わなかった。それでも、高校生になって親戚に不幸があったり法事があったりした折に、叔父さんや叔母に聞いているうちにわかってきた。
確かに大人にならなければ理解できない商売だった。当時、川端康成や谷崎潤一郎の小説をよく読んでいた文学少年だった私も、関係した語彙を辞書や事典で調べるうちに、そんな商売があったことを理解できるようになった。しかし、そんな商売を祖父が営んでいたとは夢にも思わなかったので、ちょっとしたショックを受けた。祖父は私が生まれるずっと以前、昭和二十八年に亡くなっている。つまり売春防止法が施行される以前に亡くなっている。
祖父の商売が理解できるようになると、父の晩酌の話に興味が湧き、色々聞きだすようになった。
戦中、陸軍や海軍に遊郭街ごと接収され、名古屋市中川区の八幡に移転したこと、今は見る影もないが、当時は中村遊郭と並び称されるほどの賑わいであったこと、名の知れた女郎さんがいて、その人のおかげで昭和三十三年の売春防止法施行まで、隆盛していたこと、当時は線香一本が売春の単位だったことなど、中村遊郭は商売人が相手だったので、女郎さん達も気位が高かったが、稲永遊郭は庶民的で気さくな女郎さんが多かったなど、大に亘り小に亘り聞かされた。
父は愛知時計が空襲で大変な被害に遭った時、死ぬか生きるかという大けがをした。祖父は葬式代を持って見舞いにきたこともついでに聞かされた。その傷跡は右腹部から左腹部へ鉄の棒が貫通しており、生々しく残っていた。そして、左目も失った。そのため父は死ぬまで義眼を装着していた。それでも車を運転し、我々家族や従兄達を連れてドライブした。仕事でも不自由な素振りはみせなかった。
幼少時代、保父が生きていた時代はまったく金銭的な苦労を知らなかった父も、祖父が亡くなると経済的に恵まれなくなった。叔父や叔母からの援助でなんとか生活できるほどに落ちぶれてしまった。
「俺に怖いものがあるとすりゃ、お金だな」
金回りが良くて、何不自由無く育った少年時代、自分で機械修理の商売を始め、運転資金のための借金や連帯保証人にならされ、金の恐ろしい面を知りぬいた父の最期の言葉だった。
昭和四年の生まれであるから、今生きていいれば八十三歳になる。もっと詳しく遊郭のことを聞けただろうに。
稲永遊郭が存在していたことを示す物は、空襲で焼き尽くされ、戦後の再開発や区画整理などで何も残っていない。恐らく知っている人のほとんどはこの世の人ではないだろう。物も、記憶も消えてしまう稲永遊郭について、何か資料は残っていないか調べたが、残念ながら人の記憶以外にこれというものは見つかっていない。
稲永遊郭について、名古屋にあった遊郭について調べてみたいと思っている。ライフワークにしたい。
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