ぷーみんLife

日本は必ず復興します。日本人の誇りを胸に!!

父たちの戦争体験

[ リスト ]

父の戦争記 1

父の人生は、お弟子さんの谷さん(ペンネーム)により、
よくまとめられているが、とても長い。
途中の剣道連盟との話を除けば、痛快で面白い読み物だと思う。
70過ぎの爺さんがストリートファイトをするあたりは、
状況が目に浮かんでゲラゲラ笑える
・・・が、本人を知ってるからであって、知らない人には「有り得ない」話だろう。
 
父と書いたが、実は母の再婚相手である。
谷さんの話とは別に、ここでは私なりの、この父の戦争記を書いてみる
 
________________
 
航空飛行学校を出て海軍の飛行兵となった父は航空戦闘技術においては抜群の腕前だったそうで、戦闘機は、零戦 ( ぜろせん )の後の、紫電 ( しでん )紫電改 ( しでんかい )に搭乗する。
 
神風特攻隊が行きの燃料だけを積んで行く時も、父は帰りの燃料を積んで、特攻隊が途中で撃沈される事なく任務を遂行できるように、それを守り、敵機を引き付ける役目をしていた。

  敵機(米軍機)を、十八機撃墜したそうだ。
そして、2度撃墜されたことがあり、2度とも生還した。

 当時、海軍基地では、出撃して帰らない飛行士、つまり撃墜された飛行士の為に、前もって用意していた遺品(髪の毛等)を小さな壺に入れて、鎮魂する祭壇があったが、死んだと思われ、1度目は葬儀をされたそうだ。

 祭壇に壺を引き取りに行き、振り回して歩いていたところ、たまたま居合わせた陸軍の兵士から声を掛けられた。
「こら!貴様、大切な壺を振り回すとは何事ぞ!」
「これか、こりゃ俺の鼻くそじゃ!」
(普通、髪・爪を入れていた壺に鼻くそまで入れていた)
「そ、そうでありますか!」
 と言って、了解した陸軍さんは、敬礼を返した。

 二度目の撃墜は、敵機来襲の報に接し、緊急出撃した。そして敵の戦隊と遭遇し、混戦状態となり、ドッグファイトの結果、グラマンP51を撃墜した。
 その直後、P38に後ろを取られてしまった。銃撃を受けていたので上昇すると速度が落ちるため、海面すれすれに飛んだ。しかし、長くは続かず油が噴き出し、海面に不時着した。すぐに、機銃掃射を浴びるも、味方の援護がありP38は飛び去っていった。
 しかし、昭和十九年十二月二十九日の寒い海面に放り出されてしまったのだ。
 翌、三十日、漁に使う餌を捕って長崎に帰港中の、カツオ船に救助されたときは、意識がなかった。

 父は、網元の有力者の家に預けられることになる。
意識不明の父は、布団に横たえられ、湯たんぽを抱かされ 後ろからは、村の人たちやその家のお嬢さんまで、肌で暖めてくれたという。
戦中の国民は、国を守る兵隊さんには、命懸けで尽くす社会情勢だったそうです。
 
 その後、父は、長崎の大村基地に転属となった。
 ある日、その恩人のお嬢さんが大村基地に慰問に訪れられた。慰問に訪れたのは、昭和二十年八月八日だった。
 そのうち、突然、空襲警報が鳴り響き、大村の下宿先の防空壕に避難した。
翌日は、早朝四時に出撃命令が出ており、お嬢さんを避難した防空壕に残し出撃した。戦闘が終わり、下宿に帰ったら、下宿は直撃弾を受けて壊滅しており、お嬢さんは、昨日、避難していたのと同じ防空壕で、下宿のおばさんと共に死亡していたそうだ。

 呆然として事態を掌握できず、涙も出ない状態のところへ、地響きと大きな揺れを感じた。音が響いてきた方向をみると、大村の対岸、長崎より巨大な、入道雲のようなものが昇った。
「もの凄い雲で、まん中がまっ赤、外側が白色だった。不謹慎な話しだが、大変綺麗だった」
 昭和二十年八月九日、午前十一時二分。長崎に原爆が投下されました。
「『あれは、広島に落ちた新型爆弾ではあるまいか?』という声が、聞こえてきたなー。」
 
お嬢さんの家も、村を上げて父を助けてくれた人たちも、みんな亡くなった。

 
ーーーーーーーーーーーーーー
 
父に言わせると、母は、この長崎のお嬢さんによく似ていたそうだ。

閉じる コメント(6)

顔アイコン

ゼロ戦に乗ってたら、背後が撃たれたら、胴体と座席が木製なので、簡単に殺されてしまうのです。紫電はゼロ戦の木製の脆さを補強する為に、鉄板を入れてたので、それで命が保護されたので、初期の護衛戦闘機から、後に本土防空の迎撃用に充てられた経緯です。
紫電改は、紫電がゼロ戦と同じ12.7ミリ機銃であったので、それではグラマンP51ムスタング戦闘機を撃ち落せなかったので、機関銃ではない20ミリ機関砲を搭載して、機体が重くなるので、上昇時と急降下にも耐えられるように、エンジンの潤滑油回路にキャブレターを工夫した機体へ何度も改良が加えられて行ったので、ゼロ戦よりも数は断然少なかったものの、改良種が多いのが特徴です。
戦中に、東条内閣の時に息子が設計したゼロ戦に肩入れしすぎず、半年早く紫電と紫電改の量産体制に漕ぎ着けてたら、東京大空襲や原爆投下は確実に防げたとまで言われた程、米軍もそれを認めるほどのP51を上回る高性能機であったのです。

2013/4/16(火) 午後 2:40 blog-予知ダス

顔アイコン

米軍は、P51に紫電改を見つけたら、絶対に戦わず、発見される前に逃げろと、指導してたほどです。
紫電改の飛ぶ紀伊水道一帯を避けるようにして、本土爆撃をやったほど、恐れられてた終戦末期の名機なので、後半年ほど早く、全国の要所に配備できてたら、何も特攻出撃させずに、優秀なパイロットを紫電と紫電改に振り向けることが出来て、戦局は全く形勢逆転できたほどだったのです。
東条内閣の息子への肩入れが、日本国を滅ぼしたと問われる点も、その意味で確かなのです。ナチスドイツがメッサーシュミット戦闘機に肩入れし過ぎて、軍部の現場が求めた爆撃機を軽視した結果、致命的に制空権を失って行った過ちに似て、トップの判断が、戦局の命取りを招いてしまった点で、非常に共通してるのです。

2013/4/16(火) 午後 2:58 blog-予知ダス

顔アイコン

戦中に、日本の食糧事情が悪くなったのは、ミッドウェー海戦で負けてからではないのです。日本軍は中国大陸で、既に石油の自給率と、爆撃機の製造ラインまで完成させていて、食糧自供率もどんどん良くなって行ったほど、中国大陸での統治は成功しつつあったのです。

2013/4/16(火) 午後 3:29 blog-予知ダス

顔アイコン

何が戦争の敗因であるのかは、東条内閣が、息子の設計したゼロ戦に肩入れしたものの、それは海軍の艦上攻撃機であるので、肝心な空母部隊を、対米戦争の開戦初期の真珠湾で、米国空母部隊を取り逃がしたことで、ミッドウェー開戦で日本の空母部隊が壊滅に追いやせれてしまったことです。
更に、戦局報道で「我が国の艦隊は無傷であり、空母は一隻もやられていない。」と報道誇示してしまったことで、「日本の空母の量産は必要なし。」に陥ってしまったことなのです。
結果として、ゼロ戦だけ量産し続けたものの、載せる空母が無いから、陸上戦闘機に据え置くことになってしまい、どんなに現場の兵隊達が優秀であっても、敵艦隊を早期の沖合いで叩けずに陥って、ゼロ戦が陸上から上昇しきれないうちに、高高度から爆撃されて、飛行場まで失って行き、制空権を完全に奪われてしまったのです。

2013/4/16(火) 午後 3:32 blog-予知ダス

顔アイコン

そして上陸攻撃されて、次々と太平洋諸島を奪われて、紫電の必要性に気付いた時は、東京大空襲と各地すら空襲受けてからのことであるほど、後手後手で、紫電改の量産に入る前に、食糧物資事情の輸送動脈がやられてしまい、肝心な中島航空機製造工場まで爆撃されて、降伏止む無しにまで追い込まれてるのに、まだ決断できず、原爆投下で大慌てしてから、無条件降伏を天皇が決断下したほど、内閣の大臣達の往生際は悪すぎたのです。
兵隊、日本軍は統率が取れて、最優秀であっても、内閣が後手後手であると、惨憺たる悲劇ばかり招いてしまうことは、いつの時代にも同じであり、情報通信網がケタ外れに発達した今日の時代ですら、民主党の後手後手の後手ぶりをみれば、後手後手の怖さと、油断大敵・過信錯誤が、本当の真犯人であることは明白です。

2013/4/16(火) 午後 3:37 blog-予知ダス

顔アイコン

そうなんですか〜〜。そんなに紫電って、すごかったんですね〜。
でも、今でもゼロ戦が一番有名で、本も沢山でてますよね〜。

2013/4/16(火) 午後 10:46 [ puumin ]


.
puumin
puumin
女性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(28)
  • 一陽来復
  • うまやど
  • あまのじゃく
  • 谷 潜蔵
  • さとりん
  • 葉隠
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事