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やまと新聞より一部略
昭和20年8月の終戦後の日本人が、国土復旧のために元気になって立ち上がったきっかけとなったのが、昭和天皇の全国行幸だったといわれています。
昭和天皇の行幸は、昭和21年から、神奈川県を皮切りに昭和29年の北海道まで、足かけ8年半にかけて行われました。
全行程は3万3000km、総日数は165日です。 これはたいへんなことです。 そもそも陛下の日常は、我々平民と違って、休日がありません。 一年365日、常に式典や祭事、他国の元首その他の訪問、政府決定の承認等があり、その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。 そうしたお忙しい日々を割いて、全国行幸をされました。 この巡幸を始めるにあたり、陛下はその意義について次のように述べられています。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けました。 この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。 しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 当時、焼け野原になった日本で、人々はそれまでの悠久の大義という価値観さえも失い、正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。 しかも、たいへんな食料不足です。 物価も高騰する。 お腹を空かせた家族のために、闇市に買い出しに行けば、そこは暴力が支配するドヤ街です。 嫁入り道具の着物を持って、ようやく物々交換で米を手に入れると、それを根こそぎ暴力で奪われる。 いわば無政府状態ともいえるたいへんな状況だったのです。 あの時代に陛下が選択されたのは、全国民の真心を喚起するということだったのです。
ところが、共産主義に感化された一部の人々は、そうした陛下を亡き者にしようとか、あるいは陛下を吊るし上げようと、各地で待ち受けていた。 陛下が佐賀県に行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです。 この日、陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に行幸されています。 終戦後、因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていたのです。 御料車が到着すると、群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがります。 陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられる。 町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていた)で、まさかこんなにも多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、道路わきのロープとかもありません。
陛下は、ひとごみのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。 そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返す。 所定の場所に着かれた陛下に、佐賀県知事だった沖森源一氏が、恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べます。 「本日ここに、90万県民が久しくお待ち申し上げておりました天皇陛下を目の当たりに・・・・」 そこまで言上申し上げていた沖森知事は、言葉が途切れてしまいます。 明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていた知事は、陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。 するとそのとき、入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申された。 すると、不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったのだそうです。 このあと、お寺の住職の胸にもググっと熱いものが突き上げます。 目から涙がこぼれて自分をコントロールしようとしても不可能な状態になってしまわれました。 そのとき、また入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。 気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上します。 終わると、陛下が壇上から床に降り立ち、住職のもとにお近寄りになられた。 「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。預かっているたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」と住職に申された。 住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままならなかったといいます。 このあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれます。 孤児たちには、あらかじめ、厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っている。 すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。 頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。 それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。 そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられる。 「どこから?」 「満州から帰りました」 「北朝鮮から帰りました。 すると陛下は、この子供らに 「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。 そして、 「おいくつ?」 「七つです」 「五つです」と子供達が答える。 すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、 「立派にね、元気にね」とおっしゃる。 陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。 この「立派にね、元気にね」の言葉には、「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」というお心が込められているのが、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。 一番最後の部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられます。 ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。
※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」女の子の真ん中のこの手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。 陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。 女の子が答えます。 「はい。これは父と母の位牌です」 これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、 「どこで?」とお尋ねになります。 「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」 この子は、よどむことなく答えました。 すると陛下は 「おひとりで?」とお尋ねになる。 父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。 「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」 この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。 そしてこの子の言葉が終わると、陛下は 「お淋しい」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらた。 しかし、この子は 「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから、私は淋しいことはありません。」 陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。 そして、「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申された。 宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれています。 みほとけの 教へ まもりて すくすくと 生い育つべき 子らに幸あれ |
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