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父たちの戦争体験

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父の戦争記 2

実母が再婚するとなると、当然、
新しいく父親になる男性についての目は厳しくなるものだが、
私は少しも気にしていなかった。
だが、1年もたった頃には大っっっっ嫌いになっていた。
 
理由はいくつもあるが、とにかく、一般常識が通用しないのだ。
ストリートファイトも嫌だった〜〜。
前出の谷さんの伝記も、
読み物としては面白いが、身内としてはどうよ・・・という物が多い。
だが、ここでは、戦争体験に関係のある物だけ書く。
 
 
「神風特攻隊」なる方たちが、行きの燃料だげを積んで突撃した事を読んで、
涙ながらに父に聞いた時、父はにべもなく
 
「ああ、あいつらは下手だったんじゃ。下手は仕方ない。」と言った。
私は、全身の毛が逆立ちそうな怒りがこみ上げた。
 
命をかけて、国を守ろうと敵艦に突っ込む人を
「下手だから。俺は上手かったから帰りの燃料もあった。」
とは、なんていう言い草だろう!!!
 
私は、一事が万事、父のやる事なす事が気に入らなかった。
父が、知人以外の知らない朝鮮人をやけに嫌うのも嫌だった。
 
 
でも、大人になってから、孫に「神風特攻隊は下手だった」と言った時、
私は父の中の本当の気持ちが少し見えた。
そう思うしか、なかったんだな〜〜って。
 
特攻の前に、何人もの特攻隊員が
「塩川さん、明日、行くことになりました。よろしくお願いします。」
と、挨拶に来たそうだ。
「おう、任せとけ。俺が必ずお前らを敵艦まで連れていってやる。」
 
兄貴分の父は、きっとその時、本人たちにも
「まあ、お前らは下手だからしょうがないのう。」と、言った事だろう。
 
神風特攻隊の捨て身の攻撃は、最初こそうまくいったものの、
次第に敵艦にたどりつく前に迎撃される事が多くなった。
特攻隊にとって、せめて自分の命で敵艦にダメージを与えたかったわけで、
途中で撃沈されるのは何としても避けたかった。
 
そんな特攻隊にとって、敵機の前に立ちはだかって引きつけ、
自分たちを目的地まで守ってくれる父は、頼れる兄貴分だったのだろう。
そして、そんな人たちに「下手」と言い切る父もまた、
同じく命など、とうに捨てていた・・・という事だ。
 
 

父の戦争記 1

父の人生は、お弟子さんの谷さん(ペンネーム)により、
よくまとめられているが、とても長い。
途中の剣道連盟との話を除けば、痛快で面白い読み物だと思う。
70過ぎの爺さんがストリートファイトをするあたりは、
状況が目に浮かんでゲラゲラ笑える
・・・が、本人を知ってるからであって、知らない人には「有り得ない」話だろう。
 
父と書いたが、実は母の再婚相手である。
谷さんの話とは別に、ここでは私なりの、この父の戦争記を書いてみる
 
________________
 
航空飛行学校を出て海軍の飛行兵となった父は航空戦闘技術においては抜群の腕前だったそうで、戦闘機は、零戦 ( ぜろせん )の後の、紫電 ( しでん )紫電改 ( しでんかい )に搭乗する。
 
神風特攻隊が行きの燃料だけを積んで行く時も、父は帰りの燃料を積んで、特攻隊が途中で撃沈される事なく任務を遂行できるように、それを守り、敵機を引き付ける役目をしていた。

  敵機(米軍機)を、十八機撃墜したそうだ。
そして、2度撃墜されたことがあり、2度とも生還した。

 当時、海軍基地では、出撃して帰らない飛行士、つまり撃墜された飛行士の為に、前もって用意していた遺品(髪の毛等)を小さな壺に入れて、鎮魂する祭壇があったが、死んだと思われ、1度目は葬儀をされたそうだ。

 祭壇に壺を引き取りに行き、振り回して歩いていたところ、たまたま居合わせた陸軍の兵士から声を掛けられた。
「こら!貴様、大切な壺を振り回すとは何事ぞ!」
「これか、こりゃ俺の鼻くそじゃ!」
(普通、髪・爪を入れていた壺に鼻くそまで入れていた)
「そ、そうでありますか!」
 と言って、了解した陸軍さんは、敬礼を返した。

 二度目の撃墜は、敵機来襲の報に接し、緊急出撃した。そして敵の戦隊と遭遇し、混戦状態となり、ドッグファイトの結果、グラマンP51を撃墜した。
 その直後、P38に後ろを取られてしまった。銃撃を受けていたので上昇すると速度が落ちるため、海面すれすれに飛んだ。しかし、長くは続かず油が噴き出し、海面に不時着した。すぐに、機銃掃射を浴びるも、味方の援護がありP38は飛び去っていった。
 しかし、昭和十九年十二月二十九日の寒い海面に放り出されてしまったのだ。
 翌、三十日、漁に使う餌を捕って長崎に帰港中の、カツオ船に救助されたときは、意識がなかった。

 父は、網元の有力者の家に預けられることになる。
意識不明の父は、布団に横たえられ、湯たんぽを抱かされ 後ろからは、村の人たちやその家のお嬢さんまで、肌で暖めてくれたという。
戦中の国民は、国を守る兵隊さんには、命懸けで尽くす社会情勢だったそうです。
 
 その後、父は、長崎の大村基地に転属となった。
 ある日、その恩人のお嬢さんが大村基地に慰問に訪れられた。慰問に訪れたのは、昭和二十年八月八日だった。
 そのうち、突然、空襲警報が鳴り響き、大村の下宿先の防空壕に避難した。
翌日は、早朝四時に出撃命令が出ており、お嬢さんを避難した防空壕に残し出撃した。戦闘が終わり、下宿に帰ったら、下宿は直撃弾を受けて壊滅しており、お嬢さんは、昨日、避難していたのと同じ防空壕で、下宿のおばさんと共に死亡していたそうだ。

 呆然として事態を掌握できず、涙も出ない状態のところへ、地響きと大きな揺れを感じた。音が響いてきた方向をみると、大村の対岸、長崎より巨大な、入道雲のようなものが昇った。
「もの凄い雲で、まん中がまっ赤、外側が白色だった。不謹慎な話しだが、大変綺麗だった」
 昭和二十年八月九日、午前十一時二分。長崎に原爆が投下されました。
「『あれは、広島に落ちた新型爆弾ではあるまいか?』という声が、聞こえてきたなー。」
 
お嬢さんの家も、村を上げて父を助けてくれた人たちも、みんな亡くなった。

 
ーーーーーーーーーーーーーー
 
父に言わせると、母は、この長崎のお嬢さんによく似ていたそうだ。

父の戦争記 序

過去の記事に少し書いた事がありますが、
私の父は、実はけっこう有名人です。
空手で「旭日単光章」を頂いたのも、父一人だが、父の居合の方が国宝物じゃないか・・・と、思っています。
http://www.amazon.co.jp/本/s?ie=UTF8&field-author=塩川+寶祥照成&page=1&rh=n%3A465392%2Cp_27%3A塩川+寶祥照成
父は海軍の予科練に入り、「紫電改」に乗っていた。
まだ生きているが、お弟子さんの書いた父の伝記が痛快で面白い。
「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもので、父を知らない人がその伝記を読んでも「有り得ない作り話」と思うだろう。
それぐらいブッ飛んでいる。
戦後の歴史の生き証人である父の話を、少しづつUPしていきたいと思っている。

伯父の戦争体験

 
私の母は、9人兄弟の8番目だ。
母の兄のうち、2人の兄はサイパンとラバウルで戦死。
1人は、シベリア抑留の後、生還している。
 
シベリアから生還した伯父は、3歳から小2まで、私の父親代わりだった。
よく冗談を言う、面白い伯父で、大好きだった。
 
私は何故か、『しんちょっさん』と呼んでいた。
 
 
しんちょっさんは、面白くシベリアでの話をしてくれた。
 
 
 
しんちょっさんは、言葉がわかったから、
毎朝、日本兵の人数を数えて報告する役目だった。
 
日本兵に号令をかけるとみごとに並んだそうだ。
4列に並ばせて前から番号をかける。
 
1・2・3・4・5・6 ・・・ 4×6=24
「『24人です』と、報告すると、あいつら九九がわからんもんじゃけん。
 『数えてないじゃないか!ちゃんと数えろ!』って言って
 殴ってから、自分たちでひとりずつ数えよる。
 ちゃーんと24人じゃけん、びっくりしよった。」
 
しんちょっさんは、毎朝、殴られる事がわかっていながら
わざと並ばせて、九九で人数を数えたそうだ。
 
「バッカじゃけん。」
と、しんちょっさんは、いつも、さも可笑しそうに話した。
 
しばらくすると、ロシア人たちは、日本人に感心するようになったそうだ。
 
 
「『お前たちの国は暖かいんだろう。良いな』って言うけん
 『ああ、シベリアには太陽が一つしかないからな。
 日本には2つある。』って言うと、あいつら、
 『ふーん。良いなー。』って、みーんな信じて感心しよる。」
 
 
私は子ども心に、
もしバレたら、また、殴られるのに〜。と、びくびくしながら聞いたが、
しんちょっさんは、楽しそうに話した。
 
 
敵に捕まってるんだから、シベリア抑留が大変なもので、
いつ死んでも、殺されても おかしくないものだという事は、
子どもでも何となくわかった。
 
私はまだ、かけざんの九九を知らなかったから、
「九九って、日本人はみんな知ってたの?
 小学生になったら、私も習うの?覚えられなかったらどうしよう。」と聞いた。
 
「ああ、学校にいったら、み〜んな習う。
 覚えられんやつはおらん。
 日本人だけじゃなか、
 東南アジアでも、朝鮮でも、日本が行った所の子どもは
 みな九九が言えた。」
 
「へえ〜。すごい〜。」
 
 
今になって、この会話を思い出すと
伯父がどんなに、日本の教育を、日本そのものを
誇りに思っていたかがよくわかる。
 
なぐられても、けられても
決して誇りを失わなかったのだ。
 
日本が統治した国々の子どもたちまで九九ができた事が
誇りだったのだ。
そして、そんな教育をする日本を愛していたのだ。
 
 
一度だけ、
「日本人は中国人にひどい事をしたの?」と、聞いた。
伯父は、使用人として中国人を使っていたが、仲良くしていたそうだ。
中国からひきあげる時は別れをおしまれたと言っていた。
 
 
もっと話を聞いとけば良かった・・・。
去年が、その伯父の七回忌だった。
 
 
父の戦争体験は、子どもの頃よく聞いた。
「ハイハイ・・・また自慢話か・・・」と、思った。
そう、父の戦争の話は、悲壮感がなかった。
父は大正14年生まれ。今でも元気だ。
 
去年、喉頭癌の手術をしたが、一回も体調を崩さず、やせ衰えもせず、
30回の放射線治療をこなしたのは病院始まって以来だったそうだ。
まあ、これは「高陽社」のお陰だが・・・又、別の話。
 
戦争体験者の話をちゃんと聞かなきゃ・・・と思い始めたこの頃、
夏の帰省の時に、聞いてみた。
 
「お父さん、ゼロ戦に乗ってたんでしょう!」
 
「ゼロ戦なんて、最初だけじゃ。後は紫電。
 あれが足がわるかったからそれから改2になったんじゃ。」
 
「へ・・・しれん?」
 
「紫電じゃ。紫に電じゃ。」
 
「ふーん。紫に練で紫練か・・・」
 
「・・・・・」
 
 
ゴメンネ〜。やっとわかったよ〜。
 

紫電改

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紫電改」(しでんかい)は、水上戦闘機「強風」を元に開発された局地戦闘機 紫電一一型を低翼に再設計した紫電二一型以降を指す(「紫電改」は、試作名称の仮称一号局地戦闘機が一般化したもので、制式名称は紫電二一型である)。局地戦闘機として太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。
同時期に開発された同じ発動機を搭載する中島飛行機四式戦闘機「疾風」が保守的な設計だったのと対照的に、紫電改は新機軸の設計(自動空戦フラップ層流翼)が特徴である。
後世の評価は大きく分かれているが、その数奇な運命やネーミングから人気の高い機体である。米軍を中心とした連合軍側のコードネームは"George"。紫電改は正面から見ると低翼なのがわかるため紫電とは別機と認識されていたが、戦時中には情報不足から疾風や零戦などの他機種と誤認して報告されていた。戦後になってから紫電がGeorge11、紫電改がGeorge21とも呼ばれている。日本海軍の搭乗員からは紫電が「J」、紫電改が「J改」と呼ばれた。[要出典]
なお本稿では、一般的に「紫電改」と呼ばれる紫電二一型以降について取り上げ、「紫電」と呼ばれる紫電一一乙型以前の機体については、紫電二一型の登場に至るまでの流れにおいて説明する。
 
 

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