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日本へ出発したのはまだこちらでクーラーを買ったばかりの時期、夏でした。
妹から、母がまたこけて足を骨折、歩けなくなったと連絡が入り、リハビリ、本人の意志いかんではまた歩けるようになると言われているそうだったけれど、母は認知症。車椅子生活が気に入ったようでリハビリする意志などない。
仕事をもっている妹も、最近短気になりがちで日に日にわがままいい放題の父に疲弊して、私が少しそっちに行ってみようかという言葉にすがりついてきてくれました。
私も仕事は辞めていて、次の仕事を探しているところで、まだ決まっていなかったし、その夏から高校生になるという息子、忍もまだ夏休み。
思い切って3ヶ月半の日本滞在を決意!
医者にこの位の時間で歩けるようになるはずと言われていたから、母が車椅子を卒業し、排便、洗顔等、人間として最低限必要な動作は介護なしに出きるようになるまで日本にいる、と計画しました。
残す家族、旦那は普段あまり台所に立たないので、忍に彼が普段食べるものを一人で作れるようトレーニング!
おかげで、私が出発して初めの1ヶ月くらいは実際仕事から帰ってきたパパのために夕飯まで準備していたらしいです!
日本の夏は恐ろしいほど暑かったです。
夏の1ヶ月で一気に3kg何もしないで、汗書くだけで体重が減りました。
今年の2月に2週間里帰りした時はまだなんとか元気にしていた母は、死人のような姿でベッドに横たわって、私の急な帰国もさほど驚くこともなく、虚ろな目で「あら?いてたの?」という反応。まあ想定内。
彼女の大腿骨骨折は手術できないという事で自然治癒に頼りましょうと、ようは医者に見放された感じ
下手に開いてまた入院になれば寝たきりになるという可能性がもっと大きかったせいでしょう。
骨を体内で生成するための皮下注射を毎日していました。医者で妹が注射の打ち方を教えてもらい、それをまた私に。
初めの1ヶ月は彼女は本当に一人で何もできない状態で、3ヶ月半で時間は足りるのか心配でした。
排便を知らせてくれるのはまだ助かりましたが、狭い家の中を車椅子にいちいち載せて移動するのは大変です。
つかまり立ちはできていたのですが、すぐに座りたがり、歯磨きも簡単にできません。
その上、認知症が進んでいるので、手順を一つ一つ言わなければ、次のことができなくなっている。病気の進行の早さには驚きました。
火に油を注ぐ、という状態がウチの中にあって、父がこの病気をもった母に「前はちゃんとできていたのに何で今はできないのか!しっかりしろ!」と怒鳴るのです。彼に病気のことを説明してもどうも現実が受け止められないのか、怒鳴ることや、以前にできていたのにどうして今はできない?を言いつづけるので、私も妹も閉口しました。
しかし、
今回私が帰国してとくに感じたのは、「些細な事でも怒鳴りちらす」、「物がなくなった、隠されたと私や妹に猜疑心をもつ」、自分の思い違いであったことは絶対に認めない、「不眠症」、などの症状が見られ、彼も認知症の入り口に立っているようなのです。
試しに母が服用してる「抑肝散」を服用させてみると、性格がみるみる温和になり、残念ながら父も、と確信しました。
つまりは両親共に認知症ということになります。
私は3ヶ月ほどでこの場を去れますが、妹はこの先彼らの寿命が続く限り、診つづけていかなければならないわけですから、私もそれなりの覚悟をしなければと思いました。
調べたところでは認知症患者の寿命は5年から15年と幅が広く、内臓疾患がない限り人間の寿命を生き抜くようなのです。その間にも症状はどんどん悪くなり介護者の負担は大きくなるばかり。介護者も同時に年を重ねていくわけですから、ヘルパーなどの手助けが必然となるのですが。
介護の詳細はここには書きませんけれど、未だに夢に出てくるような地獄絵を生で見させてもらい、大変な経験をしたと思います。
今まで親孝行をしてこなかった罰と罪滅ぼしのつもりでやってきました。
辛かったのはやはり忍の晴れて高校生になった初日、見てあげられなかったこと、3ヶ月半も自分の家族に触れることができなかったことですかね〜?
ハグやキスの生活に慣れていたので、そういう子供や旦那とのスキンシップが3ヶ月以上もない生活は寂しかったです。
本格的にリハビリの先生に在宅訪問で週に一度来てもらえるようになったのが、10月初め。
まだその頃は伝い歩きでなんとか、と言うところまで来ていたのだけれど、車椅子が大好きな母は、すぐにそれに座りたがり、甘えてしまうのです。
で、歩行器なら伝い歩きと同じだよ、と教えて、リハビリの先生にも了解を得て、訓練を初め、だんだん彼女も私や父を夜中に起こしてトイレにいくより一人で行けた方が良いと思ったのか、歩行器を使うようになってくれました。
車椅子は外へ散歩に出るような長い時間立たなければならないとき、介護する側が大変なので、折りたたんで彼女の目の届かない玄関に。
私の帰国便は11月中旬。もう寒くなっていました。
日本に来たときは真夏だったので、寒い季節の服は持っていなくて日本で適当に調達して帰って来ました。
私もパーキンソン病をもっています。何もしなければ母のような老後なってしまうでしょうから、毎日ほんの40分程度ですが汗を流すまで運動しています。薬は飲んでいません。治らない病気ですから、いらないものを体内に入れたくないためです。今のところは健常者と何等変わりなく、元気です。
五体満足でも今回「下の世話」を受けている母をみて、私は家族にここまで迷惑は書けたくないと思うわけです。
自分にできることはやっておこうと。
父曰く、娘の我々が老いた両親の下の世話を、すべての世話をすることが当然の「義務」である。ヘルパーさんに来てもらおうと言うと、また火山爆発のように怒り出すのです。私たち、娘が親の介護を放棄していると。
まちがっていると思うのです。
恩返しはしたいと思います。
この世に生を授けてくれてありがとう、おかげで素敵な家族ができました、と。
だから出きることはやってあげたいと。でも
今の私の人生のすべてを捨てて、彼らに尽くす義務はないのです。巣立ったのですから。
私には「ホームステイは十分やっただろうから、そろそろ日本に戻ってこい」と言うのですから、やはり少しおかしいなと。(ホームステイで結婚して、子供を14年間育て、家まで買いませんし)
ま、彼のこの言葉も今思えば「認知症」に差し掛かったが故の言葉なのかもしれませんが。
父が、
「老夫婦で無理心中というニュース、人事じゃないと思う。ふと、頭をよぎるわ」と言われたときは、ちょっとぞっとしました。
長かったですが、3ヶ月半、私の帰国目標は達成されたので、とりあえずアメリカに戻って来ました。
今、またこちらで仕事を探していますが、もうまたいつ日本に長期で里帰りするかわからないので、
これからは、単発のアルバイトとかパートみたいなので、いつでも辞められる仕事を探そうと思います。
日本では妹が頑張っているのに、私がアメリカで毎日自分のためだけに毎日ジムに通って、フルタイムでオフィスで仕事して、余った時間でアニメ観てなんて、甘えた生活はできないなって、思ったわけです。
たった3ヶ月半の介護生活で何を寝ぼけたことを!って怒られるかもしれませんが、わかったことがあります。
認知症患者との生活には笑顔、笑いが大切だということです。
父が怒鳴らなくなって、私がけらけらくらだないことで笑っているのをみて、母は反応していました。口数も食欲も少し増え、週に4日通っているデイサービスのヘルパーさんたちも「以前と比べて元気を取り戻されてます」と教えてくれました。
この病気と付き合うのに介護人が暗くなっては行けないんだなって。
息抜きもしましたよ!元気の元ですからね!
それはまた次のブログで!
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