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. よくサヨクが主張する事。
とか・・・
とか・・・ 保守の皆さんは、もぉ〜 耳にタコ ができるぐらい聞かされて来ましたよね。
でも実際、法的にも・・・・
まぁーこう書くとサヨクが顔を真っ赤にして怒り出すか、または呆れ返って失笑を買うか・・・ そういう反応をする事は容易に想像できるんですけどね。
まず、法的に言うと、天皇陛下のお立場は、憲法で「法的無答責」の規定が定められています。 大日本敵国憲法、第3条・・・『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』 これは 「絶対的な神様のような存在である」 と規定しているのではありません。 卑しくも憲法は「宗教書」ではなく「法律文」です。 法的責任が天皇陛下に及ばないようにする為に作られた文言だったのです。 これは当時のヨーロッパでも国王の『法的無答責』を守るために取り入れられた条文でした。 さらに大日本帝国憲法は、本来の責任の所在を明らかにしています。 第55条・・・『国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス』 ・・・とあります。この輔弼(ほひつ)とは補佐し助言することです。もっとハッキリ言えば、 陛下の名前だけを借りて、実権を握り、そしてその責任を負うことを言います。 ですから、天皇陛下にさまざまな責任を要求することは・・・
なぁーるほどね。 そういう「感情論」もあるかもしれません。
でもサヨクはいつまで経ってもそんな調子だったら、物事を正しく理解できるようには成れませんよね。 一見、天皇陛下の意思が命令になっているように見えるけれども・・・ 本当はこれ、全然違います。 そう見える原因は、ことあるごとに天皇の名前を乱用し、 その権威の後ろに逃げこんでいた、臣下にこそ問題があったのです。 つまり元はといえば・・・
それが時代とともに拡大していき、上は総理大臣から、下は一般軍人に至るまで・・・
勝手に 「天皇陛下」 の名前が使われるようになってしまったのです。 ここに天皇陛下の悲劇の元が生まれてしまいます。
つまり、サヨクが感情論で天皇陛下を怨むのは・・・ 木を見て森を見ず。
・・・ってことなんです。
戦後サヨクからとやかく言われてしまう、ごく最近の 昭和天皇はもとより・・・ 実は、明治天皇の時から、天皇陛下は、臣下の身勝手に振り回されて来ていたのです。 陛下のそのご苦労の程をチョットお見せしましょう・・・
少し長いのですが、小室直樹先生のご本より引用させて頂きます。じっくり読んでみて下さいね! (※ スペースは私の任意で強調するために入れています) 時は明治27年(1894年)日本は天津条約を発動した。清軍が牙山に上陸するや、日本軍は何と漢陽(ソウル)に進駐したのであった。日清戦争の縁起である。 朝鮮半島は日清両軍がにらみ合い、一触即発。 が、清の権力者 李鴻章(りこうしょう)は、いろんな理由から開戦を欲していなかった。 時の首相は伊藤博文。李鴻章は伊藤を信頼しきっていた。 「なぁに、伊藤が首相でいる限り大丈夫、彼は平和主義者だ。」 でも伊藤が平和主義者でも、中堅の高官は戦争主義者であった。陸奥外相はなんとか開戦の口実を発見しようと、着々と手をうっていた。その他の(元老以外の)諸高官も、開戦準備におさおさ怠りなかった。 〜〜(中略) 〜〜 世論は戦争熱にうかれ、諸高官は戦争をめざして狂奔する。政府は戦争をためらうが、戦争の毒気にあてられ、諸高官にだまされて、心ならずも一歩、また一歩と戦争へと近づいていった。 (李鴻章 公) ここにおいて、戦争反対を堅持なさったのは明治天皇。 とはいっても、天子ともあろうお方が「朕は戦争に反対であるぞ!」とおおせられることは、日本の習慣としてもありえない。いろんなかたちで戦争反対の意思をお伝えになるのだが、そんなことを歯牙にもかける高官ではない。 中官、低官にいたってはなお更のこと。 明治27年6月5日、大本営が設けられた。この時点においては、日本はまだ清国に宣戦布告をしていない。それどころか、まだ開戦の意思決定さえしていなかった。こんな時期に、あえて法律(戦時大本営条例)を蹂躙(じゅうりん)してまで、大本営を設置するとは。 何が何でも戦争を。その決意、不動のものがみられるではないか!! ひとたび大本営が設置されれば、軍の独走を掣肘(せいちゅう=止める事)しうるものは何もない。政府が反対しても、もはやどうにもならない。 天皇の意思なんか、何のその。 大本営で開かれた御前会議は、明治27年7月17日、ついに対清戦争を決定してしまう。以下(その2)に続きます。↓ 臣下に振り回され続けてきた、近代の天皇陛下(その2) .
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皇室関係のこと
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