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以前、少し平将門公の首塚の話に触れましたけど・・・ 皆さん覚えていますか?↓
場所はちょうど皇居の北東に当たる位置で、こんもり盛り上がった山の上に作られた神社さんです。 でも今は、周りのビルも背が高くなっているので、山の上のような気が全然しません。 そもそも平将門という武将はどういう方だったのか・・・ 実は将門公は、桓武天皇五代目の孫。 平氏の姓を賜ってから、まだ代数も浅い元皇族の家系だったのです。 平安時代の中期、朝廷を牛耳っていた藤原氏の政治の影響で、各地は治安が悪化。 さらに京への求心力も落ちていました。 またこの当時は、武士であり開拓民でもある者たちの土地所有が、まだ認められて 居ませんでした。つまり彼らは後世の武士よりもはるかに不安定で低い地位だったのです。 そんな中央の政治に不満を抱いていた関東地方の開拓民達が、平将門公に従って、
将門公は後に・・・
・・・と自称して、朝廷に反旗を翻します。
しかし、その独立期間は短く、朝廷の任を受けた平貞盛と藤原秀郷に討ち取られてしまい、 わずか2ヶ月あまりで、終焉を迎える事になりました。 その後、将門公は、京都の東市(または三条河原)で、晒し首にされてしまったそうです。 さて・・・ そんな将門公・・・ 実は反逆という重い罪なので、体をバラバラに切り刻まれたんだとか。
バラバラに切り刻むことで、再生を絶対に不可能にしょうとする呪術だったという説もあります。 まだ武士道が出来ていない平安時代なので、こういう処刑の方法もあったのでしょうね。
ところで・・・ その細切れにされた体、実は全て祀られている場所があります。 「首」は首塚。 「体」はカラダ神社がなまった、神田神社(神田明神)。 首を洗った「桶」は、築土神社。 ※(実際に東京大空襲の前まで、その桶は現存していたそうです。) 「手」は鳥越神社。 「足」は築土八幡神社。 「鎧」は鎧神社。 「兜」は兜神社。
神田明神さんは、元々は安房神社と呼ばれていた江戸湾にある小さな漁村の神様に、 将門公を合祀して、神田神社としたのが始まりだという説が有力です。 その場所はちょうど首塚と同じあたりだったとか・・・ 最初は漁村の小さな守り神であっても、良く祟ると畏れられるようになったので、 別に新たに塚を設けて(築土神社の場所。)祀ったり、首塚を鎮める為に日輪寺を浅草に建立したり・・・ いろいろと手を尽くしたようですが、やっぱり祟りは収まらなかったようです。
時代は下って、江戸の町を創ったと言われる天海僧正さん。 彼は徳川家康公の知恵袋と言われているお坊さんなんですが、その彼が江戸城の鬼門封じの為に、 首塚と同じ場所にあった体の神田神社を切り離して、現在の場所に移してしまったのが、 今の私達が知っている神田明神さんなんです。
天海僧正さんは、江戸の町を呪術的な都市として作り変えてしまったようです。 先にあげた、7つの祀られる施設は、全て江戸の街道の出入り口に移されたのですが、 これは街道から進入する邪気や悪鬼を避け封じる意味があるようなのです。 そして、その一番大切な鬼門封じには「神田明神」を持ってきて、 裏鬼門封じには「日枝神社」を持ってきたのです。 さらに念を入れて、大規模な「上野寛永寺」を設けて、江戸全体の鬼門封じにすることに なったのでした。 実は、天海僧正にはある企みがありました。 それは、平将門公が新皇を名乗った朝廷に対する謀反人であることに目をつけたのでした。 つまりその謀反人を江戸の総鎮守にすることによって、神田明神への崇敬の念が高まれば、 江戸っ子は尊王思想を持たず、徳川家への忠誠心が高まるだろう・・・ と考えたのでした。
しかし皮肉にも神様を利用しようとする試みは、どこかで必ず裏目に出るものです。 実は神田明神の神主家で行われた、講演会がきっかけで国学が広く知られるようになったのです。 その講演会を聞いた賀茂真淵が、より一層国学を洗礼させ、本居宣長、平田篤胤と受け継がれて 行くことになりました。 結局はこの国学が基礎になって、幕末の尊王思想が流行になった事を考えれば、 天海僧正の企みは江戸を守り、発展させることは成功しても、徳川政権の基盤を揺るがす種も 仕込んでしまったという事なんでしょうね。
江戸の町は神田明神さんと上野寛永寺が両方ともしっかりと鎮座していた時は、 火事こそ頻繁にあったけれども、安定的に発展できました。 でも、明治時代には鬼門を守っていた上野寛永寺は公園にされてしまい、神田明神も天皇陛下が 親拝をする時に、将門公が逆賊であったことを理由に、末社の相殿に移されてしまいました。 つまり江戸、東京の鬼門封じが解かれてしまったとも考えられます。
関東大震災、大正時代以降の日本の混迷期、大東亜戦争での大空襲。 このことと・・・ 鬼門が解かれたこととは、直接には関係ないと思いたいのですけど、 でも、日本を負かせたアメリカという国は、日本の鬼門の方向、北東にある国です。 東の国ではありません。 どぉーしても、私は引っかかってしまうんですよね。 今は将門公はやっと神田明神の三ノ宮として復帰されましたけど・・・ でも、一ノ宮でないのがまだ気になります。上野も公園のままだし・・・ まぁ、それだけ、大切な神社さんだって意識していて欲しいと思います。 皆さんも東京にお越しの最には、ぜひ神田明神さまにお参りして行って下さいね。
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凡夫さん。お返事遅くなってすいません。今気が付きました。(*- -)(*_ _)ペコ
そうです。一冊でけではないのですけど、神社の系譜の本も参考にさせて頂きました。
2008/2/23(土) 午後 1:01
TBから来ました。
神田明神は毎年訪れる親しみある神社で、
青銅の鳥居が鮮やかで好きです。
いろいろ勉強させてもらいました〜。
これからもKeiさんのところで吸収させて下さい。
2008/2/23(土) 午後 2:42 [ mas*a*dp*e ]
keiさん、こんばんわ
返事は期待していなかったので^^
金子宮司のブログ読んでたら、keiさんが質問しているではありませんか!(笑)
それで久し振りに、思い出してkeiさんのブログ開いたら返事が来てました^^ keiさん国王神社には参拝されたことはありますか?
あの地域は、将門公 縁の社寺や名所が多くてガンガンきてます。
2008/2/25(月) 午後 9:39 [ 凡夫 ]
JINさん。こんばんは!(* ^ー゚)ノ-☆
私もちょくちょく神田明神さんは参拝しています。都会の中にあっても周りの雰囲気に圧されず、堂々としている存在が良いですよね!
+。:.゚ヽ(*´∀`)ノ゚.:。+゚
2008/2/25(月) 午後 11:42
凡夫さん。金子先生はいつも聞いていたネットラジオのキャステラで質問をしたんです。でも、もうすぐ終わりなんだとか・・・
でも、なんだか乱暴で失礼な質問をしてしまって、後になって後悔してます。金子先生も少し不愉快になったかもなぁ・・・まだまだ、私は修行が足りてませんね。ヾ(;´▽`Aアセアセ
国王神社さんはまだ参拝してません。そんなに素敵なんですか?
2008/2/25(月) 午後 11:45
keiさん。国王神社は、平将門公命の御尊像が御神体となっています。年に一度行われる、将門祭りの戦勝祈願の儀に行くと宮司さんも居ますし、御神体も拝することができ、神田明神からも人が来て神田明神太鼓を敲きます。機会がありましたら、是非^^
2008/2/26(火) 午後 8:25 [ 凡夫 ]
凡夫さん。なぁ〜るほど!(*゚ー゚)(*。_。)(*゚ー゚)(*。_。)ウンウン
そういうことですね!神田明神さんがそこまで出張されるということはやっぱり凄いことですね。お祭りの時に限らず普通のときでも良いから一度参拝したいです!情報どうもありがとう!(*- -)(*_ _)ペコ
2008/2/26(火) 午後 11:45
「皇居を中心に東京の鬼門を守る」
上野の寛永寺だけじゃなかったんですね。あれは仏教寺院ですけど。
平将門といえば、私は茨城人ですので、郷土の英雄です。そして荒俣宏(あらまたひろし)原作『帝都物語』シリーズでお馴染みの(笑)怨霊ですね。嶋田久作が主人公・加藤保憲(かとうやすのり)役を演じて、生涯の当たり役となりましたね。KEIさんはこれ見ましたか?
ところでこの神社って、「銭形平次」と関わりがあるそうですね。主題歌の3番目の歌詞に名前が出てくるし。という訳で記事と関係ないですけど(笑)、また気分良く歌いま〜〜す(笑)。
2008/5/21(水) 午後 6:01 [ - ]
♫♪
1.男だったら一つに懸ける 懸けてもつれた謎を解く
誰が呼んだか 誰が呼んだか 銭形平次
花のお江戸は八百八町(はっぴゃくやちょう)
今日も決めての 今日も決めての 銭が飛ぶ
2.野暮な十手は見せたくないが 見せて聞きたい事もある
悪い奴らにゃ 悪い奴らにゃ 先手を取るが
恋のいろはは見当つかぬ
とんだ事さと とんだ事さと 苦笑い
3.道はときには曲がりもするが 曲げちゃならない人の道
どこへ行くのか どこへ行くのか 銭形平次
何だ神田の明神下で
胸に思案の 胸に思案の 月を見る
2008/5/21(水) 午後 6:02 [ - ]
東京は京都を守るべく都として作られたらしい、、、
そこには「風水」とか「陰陽道」とかを駆使し、
そこに「怨霊」をも利用したとか。
小説「怨霊記」にはただの小説とは思えないものが
書かれています。
そこに登場する将門公もまた加門七海さんの描く将門公も
怨霊とは思えない優しい人物となっています。
2009/2/26(木) 午後 10:36 [ eno**753_8*8 ]
ZODIACさん。
ごめん。また、見逃してる・・・一度見てから、後でコメントしようとすると、飛ばしちゃうんだよね。ほんとにごめんね。
銭形平次だけど、確か神田明神さんにはその石碑があったと思うよ。今度、また参拝するから、そのときに確認してみるね。
2009/2/26(木) 午後 10:49
eno**753_8*8さん。
【小説「怨霊記」にはただの小説とは思えないものが書かれています。】
その小説はまだ読んだことありません。でも、なんとなく面白そうですね!あと将門公ですけど、彼はとっても正義感が強かったって聞いています。だから、幕末に尊皇攘夷の運動を生み出す基点になったのだと思います。
2009/2/26(木) 午後 10:52
怨霊記にあの安倍晴明が将門公の子供ということが書かれています。
この作者の情報源にヤタガラスがいますが、もしそこからの情報であれば真実性が高いかも、、、
2009/2/27(金) 午後 8:12 [ eno**753_8*8 ]
eno**753_8*8さん。
私の手元にある本では、安部晴明は大膳大夫の安部益材の息子として生まれたってなっています。多分それは公式発表でしょう。将門公は940年に没しているので、eno**753_8*8さんの仰ることは、可能性はありますね。ちょうど将門公が若かりしころに産ませていれば、できないことはないと思います。でも、私はそこのところまで詳しくないので、そういう真偽についてまでは、判りません。(*- -)(*_ _)ペコ
2009/2/27(金) 午後 8:39
関西人なんで、あまり坂東武者のことは知らなかったんですが、非常に勉強になりました。
ZODIACさんいわく、帝都物語の加藤は平将門の怨霊という設定だったとは・・・。
知らないことづくしで勉強になりました。今日はもうお腹いっぱいになりました。
2009/2/27(金) 午後 9:19
秦やん3号さん。
あははは。神社の記事は私にとってはブログのメインなんです。だから本当はいつもこういう記事を書いて居たいんです。でも、余りにも日本が危なさすぎるので、政治の記事も書いてます。
2009/2/27(金) 午後 9:30
いずれにしても秦氏が絡んでいるようですね!
しかし怨霊が湧き出るという四国に封じ込められた「モノ」が最近気になってしかたがありません。
大師が八十八の封印をした意味、、それほどのモノがいるのか!?
ところで小説「鴨川ホルモー」のサイドストーリーに「ホルモー六景」というのがありますが、ここに京都と東京の裏(陰陽道)的繋がり?と思えるような一文がありました。
もちろんこれも小説ですが、、、作者があの「鹿男あおによし」の
作者で、あの意味深なストーリーを知ると深読みしたくなります。
東京と京都、、表と裏 陰と陽
2009/2/28(土) 午前 0:20 [ eno**753_8*8 ]
eno**753_8*8さん。
四国は色々と謂れがありますよね。秦氏が絡んでいるといえば、あの伝説?(笑)えっと、その小説は読んでないののでなんともコメントしようがありません。だけど東京と京都はある線で繋がっているのは知っています。
2009/2/28(土) 午前 1:38
元々は現在の皇居のお堀近くに有った天台宗だった日輪寺に遊行中の時宗二世である他阿真教上人が、荒れ果てた将門公の首塚の祟りだと怖れ疫病に苦しむ住民のために将門公の霊を供養して日輪寺も時宗に改宗し、安房神社も神田明神になったのです。
鉄の身体を持つといわれた霊力の門公の母は白狐だと言われています。
重税に苦しむ関東の弱き民人を助け、横暴を極めた都から来た役人どもを成敗した関東武士の雄であった将門公。
千四百年を経てもなお多くの人々から厚いご信仰を受けています。
2019/5/7(火) 午前 5:19 [ kikaikintou ]
江戸城下の大名屋敷の整備のために、江戸城大手門の芝崎町にあった安房神社と日輪寺は、神田と浅草とに移転させられます。
安房神社は神田明神になり、旧浅草芝崎町(現在の西浅草3丁目)で時宗の修行寺の日輪寺は時宗すべての幕府との連絡窓口である総触代になります。
毎年2月14日の将門公の命日には、神田神社(神田明神)の神官が日輪寺を訪れ住職らとともにご供養をいたします。
その時は、神田の鳶衆の勇ましい木遣りが日輪寺のお堂に響き渡ります。お寺の境内には将門公の首塚の石碑の原型があります。
2019/5/7(火) 午前 5:37 [ yurusenzou ]