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行ってまいりました「戯伝写楽」。
道すがら、「今日はなんて寒いのだろう。おまけにここのところ仕事で凹んでいるのにさらなる追い討ちか、寒風まで・・・」などと考えつつも、しばし、因果な日常を忘れ、異空間へと誘われたいと・・・
はい。しっかりかっきり誘われてまいりました^^
観劇二度目となるこのお芝居(和製ミュージカル)、今日は、皆様ノリノリノリ。さすが楽前ですな。
しかし、ノリ過ぎて台詞を噛む人も多数^^;
アドリブ多過ぎで脱線気味も^^;※ちょっとアドリブ、今日は多過ぎかな?^^;
それだけ熱く盛り上がっていたということでしょう。
いや、よかった。面白くて血沸き、肉踊る^^
それはともかく・・・・
今日、私メが「確認して来よう」と思っていたのは、
MY 仮説『戯伝写楽に流れる禅の精神』でございました。
いえ、そんな七面倒くさいことではなくて、仏性でございますね。あ、もっとわけわからなくなりました??><
おせい(写楽)と十郎兵衛、おせい&十郎兵衛VS浮雲をはじめとする私たち・・・・
脚本家は、おせい・十郎兵衛とほかの絵師たち、そして浮雲をはじめとする大衆 こういったものを対比させることで、人間のサガを浮き彫りにしたかったのかもしれない・・・と感じました。
※おせいと十郎兵衛を一緒にしたのは、おせいの気持ちをもっとも理解していたのが十郎兵衛だったからです。
で、仮説を立てたのが、おせいに流れる「無の精神」です。
いつもどんなときにも微笑んでいるおせい。無邪気で何事、何者、何物にも執着がなく、欲というものがない。
あるとすれば、絵を描くことだけ。それさえできていれば幸せであるということ。
この微笑に私メ、もしやもしや・・・と・・・。
この時代、伝統芸術やその他に禅の意識は浸透しておりました。
茶道に華道に武道に能、日本画、食、衣類、建築物・・・・・
余計わからなくなりますね^^;
宮本武蔵は禅を取り込んだ剣の達人でしたが、「五輪書」で、剣道を極めるのあたり、身のこなしや剣さばき以上に「目つき」に心を注いでいます。その極意とは、「うらやかにみゆる」ようにせよ、と説いています。
うらやかとは、春の風が吹くごとくおだやかな表情を保てということ。
また、お釈迦さまが継承者を選ぶときも決め手は笑顔だったのです。
釈尊が晩年のある日、霊鷲山で説法をしていて、ふと一枝の花を取って示した。
集まった弟子たちは何のことかわからず、目を白黒させるばかり。その中で迦葉(かしょう)だけはやわらかな微笑を返した。
ここに流れるものは、お釈迦様と迦葉との以心伝心です。
ほかの弟子たちですが、腹のうちを探って人と争う思いが広がり、心には荒波がたっていたわけです。けれど、迦葉だけは、無心に花を見つめ、心に波立ちが無かった。だから笑顔がこぼれた。花を見て心がやわらぐ。これは無心の境地にある証拠なのです。
中国に「笑っている顔は打つことができない」ということわざがありますが、つまり、笑顔は無敵。無心というわけです。
おせいは、まさにこの境地。というか、本人は悟りだの何だのということすら考えていない。
おせい像とは、こういった精神が息づいているのではないか? と考えるわけです。
天才だからそうなのか天才の前にこの精神を持つからそういった才能を持ちえたのか?
邪心もなく無垢なその心こそ仏といえるのではないかと(念を押しますが、本人はそれすら自覚していないでしょう)。
この造形を大和悠河さんが作ったのか演出家と一緒に作り上げたのかはわかりませんが、非常に興味深いなと思っておりました。
禅では人はみな仏となりうるのですが、日常の邪心や欲でなかなかそれに到達できません。だからこそ、修行というものがあるわけです。
余談ですが、禅には有名な禅問答というのがありますが、これがまたちんぷんかんぷんの哲学か何かのようなのです。
★「一切を捨てる」
趙州和尚に厳陽善信(げんようぜんしん)が尋ねた。 「私は、一切を捨てて何ももっていません。私は、どうするべきでしょうか」 「捨ててしまえ!」 「捨ててしまえといわれても、もう何ももっていないのです」 「その、捨てるものは何もないというものを、捨てるのだ!」 そして、こういったものも。
★「枯れた木」
ある老婆が、一人の修行僧を世話して二十年がすぎた。 あるとき少女が修行僧に抱きついて誘惑した。 「さあ、私をどうなさいます?」 僧はまったく動揺せずにいった。 「枯れた木が冬の岩に立つように、私の心はまったく熱くならない」 この言葉を少女から聞いた老婆は、激怒していった。 「自分は、こんな俗物を二十年も世話していたのか!」 そして僧を追い出し、庵も汚らわしいといって焼いてしまった。 ●桜は美しい。その美しいものを、美しいと思う感情こそが、まさに人間らしさであり、「仏の慈悲」につながるものではないのだろうか? こうした、桜を愛でる気持ちで少女に接するならば、決して枯れた木のように冷たい心にはならない。少女への慈悲(愛)に満ちた気持ちで、もっと生き生きとした会話がそこで為されたことであろう。
おそらく、この僧は、少女を「性的対象」と見る意識がもともとあるから、「枯れた木のように心は熱くならない」といってはねつけたのかもしれない。ということは、つまりその時点で、性的な煩悩から実は解放されていないということを物語っているわけで、老婆が「俗物で汚らわしい」と嘆いた理由もここにあるわけだ。 ※禅問答には正解がありません。要注意。
ここで、「戯伝写楽」をご覧になった人は、ピンと来ませんでしたか?
そう、十郎兵衛がおせいに接する姿です。別におせいは十郎兵衛を誘惑したわけではありませんから、ズバリというものではありませんが、十さんのおせいに対する愛は、彼女を理解したうえで愛するものでした。
そしてまた、もしかすると男女を越えた愛だったのではないかと・・・
私メの勝手な考えは、間違っているかもしれませんが、
二人の関係は、ある種、無の境地にいる人とそれを理解する人との結びつきではなかったかと。
もしもそうなら、二人の間には大いなる信頼関係があり、ほかの人々(邪心の残る役柄の人たちやわれわれ人間たち)とは異なる世界観があったようにも・・・
ちなみに十郎兵衛は、普段はめちゃめちゃ世俗的ですが、心の根っこはそういったものが理解できたのではないだろうかと・・・いや、おせいに接するうちにそれが芽生えたのかもしれませんが。。。
浮雲はドラマチックな役柄ですが、ここでは俗にまみれた業を持つ人物として描かれます。
そして、本人はそれをわかり過ぎるほとわかっていて、苦しみの中にいます。
(○を持っての最後の見せ場もあり、非常に美味しい役柄ですね。しかも、大衆が自分の心と重ね合わせることのできる役。もってけドロボーみたいな^^; しかし、天下一の花魁なので所作が難しそうです)
私たちが浮雲に共感するのは、私たちと近いからでしょう。業から脱出したいともがき苦しむ者。まさに、それは私たちそのもの。浮雲の場合、境遇やその他が悲劇的でもあり、その象徴として存在するわけですよね。
おせいが浮雲に反応するのも、その最たるものという部分もあるのかもしれません。
ここに私メは仏心を見るわけです。
おせいは浮雲の断末魔を見ることによってとりつかれたようになってしまいます・・・
ここで生と死も語られる。
なお、禅には指や肩を切り落としたり、動物を切り捨てたりというものが出てきます。
それらは、本当に切ったりしたのかということよりも、心を覚醒させる強烈な比喩となっています。
写楽にもそのような場面が出てきますね。
ほら、クライマックスで^^ 十さんが^^
ここで書いていることはあくまで私メの勝手な推測。
お目汚しに過ぎませんが、
おせいは、このような禅・・・無で生きる象徴ではなかったかと。
かつて雲水は、自らが大いなる悟りを得たと確信するまでは、一ヶ所にとどまることなく、足の向くまま各地を行脚しました。持つものは最小限の衣類と食器だけ。どこまでもあるいて行く。
禅は外も内もあらゆるものをそぎ落としていくもの。落とされれば落とされるほど心軽く、解き放たれていくといいます。
おせいもそうではなかったか。
その意味で、大和さんの役柄の構築は、とても魅力的だと感じております。
このおせいを本当の意味で演じられるのは、なかなかいないのでは? とも。
そういえば、おせいと十郎兵衛は前回に比べて、強く二人の絆を感じました。
息がますます合ってきたのか? 私メの見る目が前と違ったのか??^^;
長々書いてきて、いいたかったことは、・・・・おせいは 聖女(せいなるおんな)なんじゃないか?? ってこと。
あぁ・・・ひとことですむことでした。失礼いたしましたm(_)m
そして、あくまで勝手な解釈であることをご容赦くださいませ。
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聖女を見届けてまいりました。本日楽のおせいちゃんは正しくそれでした。
私もおせいちゃんをなんといい表わせばよいのか分からなかったのですが、今、keiyuちゃんのこの記事を読んで、モヤモヤがすっきりしたような感じです。(今日の楽に行く前に読んでおけば良かったとちょっと後悔)
おせいちゃんがきわどい台詞を言ってもいやらしく感じないのは
そのせいかな?
絵を描くことが生きる事全てであり、生業でもあったのですね。
男性との係わり方はそれについてくるおまけのようなもので、、、。
十さんとの係わりで、それが、生きる楽しさと変わっていったのではないかな?
なんて、何が言いたかったのでしょう私。
2010/4/17(土) 午後 10:45 [ ゆうがなママ ]
ママさん、こんばんは〜^^
千秋楽、大変な盛り上がりだったようで、それを見届けていらしたのですね^^ お疲れ様でした。そして、すばらしい舞台に拍手を〜^^
いえいえ、ここに書いていることは、私メの勝手な解釈でありまして・・・でも、おせいは何かの象徴であることは確かだと思っていました。だから、われわれ俗人や煩悩を抱えているもの、悩み苦しくものたちとはちょっと別の次元(宇宙人 笑)にいる人であろうと思いました。
なので、「聖女」とあらわしたのですが、共感していただき、恐縮に存じます^^
そうそう、おせいの言葉には何の頓着もないといえますから、性的なものもほとんど意識していない。相手が望むなら応えようか? という程度ではないかと^^;
そうですね。絵を描くことが生きることだったのでしょう^^
昨日は、十さんとおせいの心の交流がさらに結びつき、深くなったようなお芝居に思えました。見事な二人に、お祝いを^^
うふふ。
2010/4/17(土) 午後 11:10
あと。
だからこそ、細やかな芝居と感性が必要なのは、主演であるこの十郎兵衛とおせいなんです。
どうしても振りかぶった演技や自分たちと近いものに共感してしまいますが、そのあたりは見逃してはならないと思います。
この二人の演技なしには、実は、このお芝居、成立しない・・・
そこは、強調しておきたいと思います^^
2010/4/17(土) 午後 11:15
きっとこんなに深いことはなーーーーーーーんも
考えていないのが本人だと思ったりします。
本能でおせいを生きてるように、、、
やっぱり宇宙人だわ。
2010/4/19(月) 午後 1:32 [ 優雅に宝塚 ]
優雅に宝塚さん、遅くなりましたm(_)m
そうかもしれませんね。でも、役作りについて、俳優さんたちは手の内を明かさないのが鉄則のようなこともいいますよん^^ 最近は、ブログなども増えたので中にはいろいろ語る人もいるかもしれませんが。
とはいえ、大和さんの場合、感性でとらえるタイプなのだろうなぁと思いますが、あぁ見えて(え? 笑)、かなり役作りにはこだわる人とお見受けしました^^ いずれにしても、本能で演じているように見えるのはすごい事。たいしたものです^^
ここにあげたのは、本来、演出家や脚本家が考えるもので、余計なことを書いちゃってます^^; 昔は・・・主演らの俳優も交わって徹底的に議論したこともあったようです。映画はさらにそうですね〜。
でも、今は違ってきているのかもしれません。
あーだこーだと・・・徳のない私メは、つい語ってしまいます。
ちょっと自重しなきゃ(笑)
2010/4/20(火) 午後 9:41