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二人の A

 人は自分にどれだけ正直になれるだろうか。ベストセラーになった心理学の本を読んでみても、それは

中々難しいと書いてある。ばかな、自分に正直であることが難しいって? そんなことはない。私はいつ

だって、自分に対して正直に生きてきた。だがそれは、大多数の人にとっては、もしかしたら難しいこと

なのかもしれない。私なら気にしないが、自分に正直であるが故にバッシングを受けることもあるだろ

う。自分に正直であることは、身勝手であることと表裏一体なのかもしれない。私には二人の A という

パートナーがいる。 A子は会社の後輩で、以前同じプロジェクトを担当したことによりいつの間にか親し

くなっていた。 A香は知人の紹介で知り会ったのだが、最初に会った時からすぐにピンときた。小さくて

笑顔がかわいらしい A子、派手目な美人で大きな瞳がチャームポイントの A香、私は二人の A との生活

を心から楽しんでいる。そして、二人に分け隔てなく愛情を注いでいる。世間的には二股というのかもし

れないが、自分に正直に生きているだけだ。そんな私が唯一気をつけていることは、決して両方の Aにも

う一人の Aの存在を気づかせないことだ。別に修羅場を恐れている訳ではない。パートナーを傷付けない

為の最低限のルールを守っているに過ぎない。私達の関係を知っている友人からは、おまえはうまくやっ

ているよなと揶揄されるが、そんなつもりはない。ごくあたりまえのことを守っているだけと思ってい

る。

 今日は A子との食事だ。墓地に近い小さなレストランには、シェフ渾身の料理が並ぶ。A子と食事をし

ている最中、私は A子のことだけを考える。決して、A香のことは考えない。考えないようにしている訳

ではない。自然とそうなるのだ。それに目の前にはおいしい料理が並んでいるのだ。食道楽の私であって

も、テーブルの上の皿と対面にいるデザートを一晩かけて味わうことを考えると、他のことを考える余裕

はない。本日のスペシャリテは、今が旬のいさきのソテーだ。長崎の沖合いで漁れた丸々と太ったいさき

は、いかにもおいしそうだ。私がいさきにかぶりつこうとしたその時、A子の携帯が震えた。「あっ、ち

ょっとごめん、メール。」というと、A子は携帯を持って離席した。別に席で見ればいいのにと思ったの

だが、食事中のマナーにうるさい A子にとっては許されない行為なのかもしれない。程なくして何気ない

顔で A子は戻ってきた。気にならない訳ではなかったが、その時の私にとってはいさきが冷めてしまわな

いことも同じ位重要だった。

 幾日か後、私は A香とテーブルを囲んでいた。。A香と食事をしている最中は、A子のことは考えない。

やはり考えないようにしている訳ではなく、自然とそうなるのだ。それに目の前にはぐつぐつとたぎる赤

い鍋もある。まるで、今日これからの私達の成り行きを暗示しているような鍋だ。牛モツ、ニラ、キャベ

ツ、茸、そして今夜を祝福してくれるかのように、朝鮮人参まで入っている。モツの脂が溶け、鍋の表面

がテラテラしてきた。思わずごくりと唾を飲み込む。「もういいんじゃない?」、堪えきれずに話しかけ

ると、その美しい外観とは似合わない鍋奉行の A香は、「まーだ、もう少し。だいじょうぶ、このモツは

煮ても硬くならないから。」、とつれない。それからきっかり 30秒後、「さあ、もういいわ。」、天使

様のお言葉をいただいた。とその時、ブルブルと音がした。「あっ、ちょっとごめん、メール。」という

と、A香はバックから携帯を取り出して離席した。えっ! 私はおあずけをくらった犬になってしまっ

た。そういえば、このシチュシエーション何時かと同じだ、えーっと、何時だっけ・・・ 「ごめんごめ

ん、さあ、鍋が煮えすぎない内に食べなきゃね!」と A香。私もつられて、熱い汁をすすった。気になら

ない訳ではなかったが、その時の私にとっては鍋が煮え過ぎてしまわないことも同じ位重要だった。

 その幾日か後、私はいつものように仕事をしていた。一仕事終えてくつろいでいると、足元のカバンが

ブーンとうなった。メールだ。だが妙だ。いつもと音が違う。というか、うなり方が大きい。どうしたの

かとカバンを探ると、二つの携帯が点滅していた。そう、私は A子用と A香用と携帯を分けているのだ。

しかも間違えないように、キャリアも機種もわざと異なったものを使っていた。二つ同時にメールが入る

とは、偶然とはいえめずらしい。私はまず、A子用の携帯からチェックした。「ごめんなさい、あなたの

ことは愛しています。でも実は、あなた以上に愛している人がいます。もう私は自分に嘘はつけませ

ん・・・」、一瞬思考が止まった。そしてその時初めて、 A子のことを考えているのに A香の顔が浮かん

だ。とりあえず思考を中断して A香からのメールを見た私は、椅子に座っているにもかかわらずめまい

がした。「大切なお話があります。あなたからはいっぱい愛をもらいました。そのことにはとても感謝し

ています。でも今私には、いくら愛を注いでも足りない人がいます。自分をごまかすのにもう疲れまし

た・・・」。暫く状況が整理できずに、ボーっとしていた。今思い出してみても、あの日の午後の記憶は

途切れ途切れにしか思い出せない。

 その夜、私は友人とテーブルを囲んでいた。生ビール、枝豆、縞ほっけ、海鮮サラダ、テーブルの上に

は、バイトの兄ちゃんが渾身の力を振り絞ったかも? しれない料理が並ぶ。「で、おまえはどう返信し

たんだ?」、「で、も何も、どうしようもないよ、俺は二人から同時にフラれた訳だから。」。友人はビ

ールをくびりとやると、腹の底からうれしそうに笑った。「二股かけていたつもりのおまえが、実は、二

人から二股かけられていたという訳か。そして、その二人から同時にフラれたと。いや、こいつはいいや

〜。」。友人はまたケラケラと笑った。私はこみ上げてくるものを抑えるように、むりやり苦いビールを

流し込んだ。どうやら自分に正直なのは、私以上に二人の A だったようだ。

ゆっくりとした春

 春になるとウキウキするという人がいるが、私にはわからない。じゅあどうなるのか、春は嫌いなのか

と問い詰めるように訊かれたことがあるのだが、すぐには答えられなかった。まるでウキウキしない人は

悪者みたいだと思ったが、ウキウキしないものは仕方ない。やっとの思いで、ウキウキするというよりは

ゆっくりとした気分になると答えた。もちろん春は嫌いではない。幸い未だ花粉症にもなっていないし。

すると、ゆっくりした気分とはどういう気分だという。どういうって、ゆっくりはゆっくりなのだ。なん

だろう、もうあの寒さにうち震える必要はないのだと思うと、漂うような安心感に包まれるとでもいえば

いいのか。その感じがゆっくりなのだ。ゆったりともちょっと違う。そこまでの余裕がある訳ではない。

特に、午前中に窓際の席にすわり、春の陽を浴びながらなにもせずにただじっとしていると、とてもゆっ

くりなのだ。そんな時は、外界からの刺激を極力締め出してしまう。音楽は消し、電話は切り、雑誌はか

たずけ、家中の扉という扉を閉める。そして万を持して、春にひたるのだ。窓際の席には春が満ちてい

る。そこに座ると、際限なく春を感じることができる。ところが人間というのは不都合な生き物で、暫く

すると、トイレに行きたくなったり、空腹を覚えたりする。仕方ないので、トイレに行き、冷蔵庫をごそ

ごそと漁ってみる。なんやかやと食材が入っているが、こんな時一番ピッタリくるのは甘いものだったり

する。スポンジケーキでもあれば、紅茶に浸しながらのんびりといただく。そうこうしているうちに、気

が付いたら陽が翳っていたなんてことが何度もあった。全然生産的じゃないとお叱りをいただくかもしれ

ないが、それが私の春の過ごし方なのだ。だが、そんな生産的でない日々は長くは続かないものだ。スポ

ンジケーキ一つ取っても自然に生えてくる訳ではないのだ。ケーキの在庫が切れたある日、仕方なしに外

に出てみることにした。家の前の道を真っ直ぐに進み、角を曲がったところに街のパン屋さんがある。大

きなスポンジケーキを一つとり、レジに並ぶ。ポケットから小銭を取り出して数えると、なんと、100円

足りない。あちこち探したが、無いものは無い。あきらめて店を後にしようと顔を上げたら、どうされま

した? と声をかけられた。正直に事情を話すと、半分だけ売ってくれることになった。私は半分のスポ

ンジケーキを抱え、春に戻っていった。半分だけのケーキはすぐになくなってしまった。どうしよう、新

しいスポンジケーキを買おうにもお金がない・・・ 突然のベルの音で飛び上がった。年上の知人からの

電話だった。知人の姪が部屋を探しているのだが、適当な物件が見つからない。今日には部屋を決めなけ

ればならないのだが、本人が納得しないという。ついては、部屋が決まるまでルームシェアさせてもらえ

ないかという提案だった。もちろん、部屋代は支払うという。私はちょっと考えた末、自分の生活を乱さ

ないことを条件に了解した。彼女は直ぐにやってきた。部屋に通し、現状を正直に話した。それと、部屋

代を前払いでもらえないかとも。彼女は了承し、私はパン屋に向かった。そうやって私にとってのいつも

の春の日は戻ってきた。新しい同居人がうるさい人なら嫌だなと思ったのだが、それは杞憂だったよう

だ。彼女は来たその日から、もう何年もこの部屋に住んでいるかのごとく馴染んでしまった。それは、彼

女が持っている空気感によるものだった。最初からこの部屋と、そして、私と同じ空気を持っている人だ

った。これならだいじょうぶかもしれないと思った。私はちょっとだけ警戒しながらも、窓際の席に座る

よう勧めた。おずおずと彼女は窓際族に仲間入りした。私達はほとんど何もしゃべらず、ただただそこに

いて、空腹になったらスポンジケーキを食べた。そして時々、お互いをゆるく見詰め合った。視線は空を

飛ぶのではなく、いたわるかのごとく、春の陽にのってゆっくりと相手に届いた。それだけでじゅうぶん

だった。それからずいぶんと陽は進んだ。いまや窓際族は四人になった。二人の娘も春の陽が大好きで、

この季節になるとみなでスポンジケーキを食べ紅茶を飲んだ。そのうちに娘達は、男の子を連れてくるよ

うになった。彼らは、気を利かせてスポンジケーキを買ってきてくれた。少々狭いが、今や窓際族は 6人

だ。皆ほとんどしゃべらず、ゆっくりとして紅茶を飲む。私にとっての春は、何年たってもウキウキでは

ない。ゆっくりなのだ。

Escape!

 午後のオフィスはまったりとした空気が支配していた。いや、本当はまったりなどはしていないのかも

しれない。せわしなくキーを弾くカチャカチャという音は、周囲からは始終ひっきり無しに聞こえてく

る。皆無言で一心不乱に PC に向かっている。そんな中、自分だけがボーっとしていた。決してやるべき

ことが無い訳ではない。それどころか、やらなければならないことだらけだ。しかし、全くやる気が起き

ない。幾つかの受け入れ難い事実を前にして、どうしようもなくなり停滞してしまっていた。なぜこうな

るのか、なぜこんなことをせねばならないのか。考えれば考える程嫌な気分になる。そう、ただ漠然と

「嫌」なのだ。人から見れば、前向きでないだけと思うだろう。困難な問題に打ち勝ってこそ、人は成長

するのだと。そういうのは簡単だ。だが嫌なものは嫌なのだ。例えば毛虫が嫌いな人に訊いて見るとい

い。あなたはなぜ毛虫が嫌いなのですかと。明確に答えられる人がどれだけいるだろうか。毛虫は嫌い

だからこそ嫌いなのだ。そして、そんな人に毛虫を好きになるように言ったところで、どうしようもな

い。そんなことを考えていると、また催促のメールが入った。私はふーっと大きなため息をつき、上司に

メールを書き始めた。「すみません、急に体調が悪くなってきました。早退させてください。」。上司か

らの回答は待たずに、PC の電源を切った。

 二月とはいえ、午後の日差しは暖かかった。たっぷりの陽を浴びながら、商店街の喧騒を抜け、公園に

向かった。コーヒーショップで仕入れたローストビーフと生ハムのサンドイッチは、ぼんやりと温かかっ

た。カリッと焼かれたパンは、自身が出した熱がこもったせいでしっとりとしてしまったが、ローストビ

ーフも生ハムも悪くない。公園はひと時の休憩を楽しむ人でけっこう混んでいる。身なりのきちっとした

初老の紳士。犬を散歩させている若い女性。子供連れのお母さん。トレーニングスーツに身を包んだ若い

男性。そして自分。皆それぞれの事情があって、今ここにいるのだ。パンを食べ終わると、ゆっくりと周

囲を歩いてみた。桜の枝は、小さなつぼみがほんの少しだけふくらんでいる。池の水鳥は、水面をゆった

りと漂っている。だが、胸のしこりは消えない。私のメールボックスには、更なる催促のメールが届いて

いるに違いないのだ。小一時間もそうしていただろうか。私は意を決して踵を返した。

 会社に戻ると、まず熱いコーヒーを入れた。PC が立ち上がるまでの間、ゆっくりとその苦味と香りに

ひたる。胸のつかえはすっかりと楽になった。今は、少々興奮している。顔がほてっていたかもしれな

い。メールを開くと、未読のメールであふれていた。文面など読まなくても、タイトルを読んだだけでわ

かる。受話器を取り上げると、ゆっくりと間違わないようにボタンを押した。程なくして先方が応答し

た。私は自分であることを告げ、はっきりと言った。

「その件はやりません。」

「やりませんって、何いってるんですか。じゃあいったいどうなるんですか。」

「さあ、知りません。とにかくやりません。」

「とにかくって、なんでやらないんですか!」

「やりたくないから、嫌だからです。」

「いっ、いやだから? えーっ、そんなの理由になるんですか?」

「はい、じゅうぶんだと思います。とくにかくやりません。これで失礼ます。」

受話器を置くと、ふーっと息をついて、コーヒーをすすった。これで終わった。そして上司にメールを書

いた。

「例の件は正式に断りました。理由はやりたくないから、嫌だからです。後はお願いします。それと明日

から 4 〜 5日休暇をいただけませんか。ちょっと気分を変えたいのです。」

机の中からパスポートを取り出すと、そのまま空港に向かった。私は逃げた。嫌だから逃げたのだ。そう

思うと、笑いがこみ上げてきた。現実逃避? そうかもしれない。勝利者? そんなことはわからない。

とにかく私は逃げたのだ。いまはっきりしているのは、雲の上はいつでも晴れている。ただそれだけだ。

ポトフなクリスマス

 寒くなると、ポトフが食べたくなる。日本人ならおでんだろという向きもあろうが、私の場合は決まっ

てポトフだ。以前、「おでんもポトフも変わらないようなもんだろう。」と暴言を吐いたやつがいたが、

おでんとポトフは全く異なる料理である(少なくとも、私にとっては。そして、やつとは喧嘩になりそう

になった。)。この一線だけは絶対に譲れない。なぜかと聞かれても答えようがない。とにかく、ポトフ

なのだ。

 どんよりと曇ったその日の午後、木枯らしの中、私は一人坂道を登っていた。足元には枯葉がまとわり

付き、ときおり吹き付ける風がいっそう寂しさを助長させる。街はもうすっかりクリスマスの装いだ。な

のに私は一人である。一人であることは嫌いな方ではない。誰かに振り回されるくらいなら、一人の方が

よっぽど気楽だ。普段はそう思っていても、この時期だけは寂しさが纏わり付いてきて離れない。日本人

にとってのクリスマスなんて所詮、小売業や飲食業が売り上げ増を目論んでしかけたイベントに過ぎな

い。宗教的な意味合いは皆無なのだから。だから、こんなイベントは端っから無視しようとしているのだ

が、それでもヤツは暴力的なまでに侵食してくる。ミニスカのサンタが、「メリークリスマ〜ス。」とテ

ィッシュを差し出す。不意を突かれて顔を上げると、にっこりと微笑んだ愛らしいサンタクロースと目が

合う。すると、すぐに隣に立つ黒服が、「最初の1時間、1,980円です。いかがですかあ〜。」と引き取

る。冗談じゃない、足を速めてその場を立ち去る。こんな見え透いた誘惑に負けるほど私はマヌケではな

い。私にはやることがあるのだ。急いで家に戻り、大きな青いかごをかかえ部屋を出る。角の銭湯から

は、カップルが幸せそうに手をつないで出てくる。心の中でチッと舌打ちする。ふーん、今更銭湯に行く

なんて、風呂付の部屋に住めないほどの貧乏カップルに違いないと考えると、ちょっとだけ気が晴れた。

誰もいないコインランドリーは、切れかかった蛍光灯が点滅していた。洗濯機を回しながら、少年漫画を

読む。下町の交番の話は、いったい何年続いているのだろう。そんなたわいの無いことを考えているうち

に、乾燥機が止まった。かごをかかえ、コインランドリーを出ようとすると、毛糸で編んだ真っ白いブル

ゾンを着て、薄いピンク色のマフラーをぐるぐるに巻いた女の子とぶつかりそうになった。「あっ、すみ

ません。」と声をかけられたが、とっさに対応することが出来ずに、あいまいな笑顔をを返した。一瞬、

洗濯の時間を後一時間遅らせていたらと思ったが、どうにもなりはしない。現実から目をそらしてはいけ

ない。その現実は、この赤いカウンターにある。「牛丼並ときつねうどんのセットおまたせいたしました

ー。」。クリスマスであろうと、正月であろうと、現実は牛丼ときつねうどんの中にこそ存在するのだ。

すっかり満足して家路に着く。途中、明かりに引かれてついついビデオ屋に立ち寄る。店の奥に仕切られ

た一角には、今日も男共が真剣な眼差しで棚と向き合っている。私は一直線に一つの棚に向かう。「チ

ッ、また借りられてるのか。」。アニオタ系のアイドルがブレイクしたせいか、コスプレ物は今日も人気

だ。仕方なしに熟女系に変えるべく棚を移るも、これも惨敗。ついていない日は、とことんついていない

ものだ。長年の経験から言いうと、こんな日はあきらめるに限るのだ。妥協して適当なものを選んだとし

ても、大抵ははずれだ。うつろな目で店を出ると、いきなり木枯らしが吹き付けてくる。「うーさむ

っ!」、鼻水が垂れてくる。あわててポケットを探ると、ビニールのつるつるした感触がある。よかった

と思い、ティッシュを取り出す。ふと、なにげなくそれを眺めると、本日と明日に限り最初の1時間 

1,980とある。「1,980円かー。」、鼻をかみながら、頭の中は 1,980円が回っていた。

 「レナで〜す、よろしくお願いしま〜す。」。目の前にはミニスカサンタがいた。やがて、新しいミニ

スカサンタが来た。「メリークリスマ〜ス、かんぱ〜い。」。今日何度目の乾杯だろうか。「お客様、

1時間が過ぎますが、延長でよろしいでしょうか。」。ひざまづいた黒服が、うやうやしく訊いてくる。

「えっ、もおお しょうがないなあ、じゃあ・・・」と腰を浮かしかけたとたん、「えー、あや着たばっ

かだよ〜、もいっかいあやとカンパイしようよ〜。」と腕にすがりつかれた。「そりゃーそーだよねー、

当然、当然! えんちょーで!」とつい口が動く。「ねえ〜、あやお腹すいたー、フルーツたのんでもい

〜い〜。」、「いいとも〜」。もはや、ほとんど自分ではなくなっていた。「お客さんは何が食べた

い?」、「えー、お客さんじゃなくて、ユウトって呼んで。」、「ハイ、じゃあユウト君は何か食べたい

でちゅか〜?」、「うーんそーだなあ、ポトフ、ポトフがいい。」。「えー、ポトフ?」、あやはびっく

りしつつも、黒服に何か耳打ちした。程なくして、テーブルの上には、大根、卵、ちくわ、コンニャク等

が浮いた器が置かれた。「ごめんねー、ポトフは無いからおでんにしちゃった。でも、ポトフとおでんは

同じようなものよね。ハイ、アーンして。」。

 アーンと口を開けながら、痺れた頭でかろうじて考えた。まあ、ポトフとかおでんとかは、とどのつま

りたいした問題ではないのだ。そうそう、似たようものだ。方や西洋で、方や東洋の違いだけで、どちら

の料理も野菜や肉のスープ煮なのだから。こうして、私のクリスマスは過ぎていった。

葡萄

 これは、年長の知人から聞いた話である。今から思うとまるで作り物のような話だが、どこまで本当

か、作り話なのか、私にはわからない。ただ一つ言えるのは、戦後の混乱期にはこの手の話はめずらしく

なかったということだ。その日私達は、裏通りのバーのカウンターに座っていた。カウンターには、葡萄

が無造作に置いてあった。「グレープフルーツやオレンジならともかく、バーに葡萄なんてめずらしいで

すね。」というと、知人は、「ぶどうか・・・」とつぶやき、ポツリポツリと語り始めた。

 その日は朝から雨が降っていた。遅く起きた私は、羽織を羽織って外に出た。9月とはいえ未だ蒸し暑

く、しばらく歩いていると、うっすらと汗ばむほどであった。さすがに最早蝉はいないようだが、鈴虫の

季節という程でもない。そんな中途半端な季節だった。路面電車の停留所では、先客が三人いた。四人目

に並んで待っていると、電車は程なくしてやってきた。電車に乗り込み、いつもの場所で下車する。ここ

で降りるのは、何度になるだろう。ぽつぽつと復興されている商店街を歩き、中通りへと続く角を曲が

る。ふと、八百屋の軒先に、葡萄が出ているのが目に付いた。濃い紫色の大きな実が房を造っている。一

瞬手を出しかけて、あわてて引っ込めた。とっさに少しでも体に良さそうな物をと思ったのだが、葡萄な

どとても買える身分ではない。店番らしい初老の女は、全てお見通しとばかりににこにこと微笑んでい

る。そして、そのまま立ち去ろうとした私を呼び止めた。「こっちのなら小さい分安いよ。それにあんた

苦労してそうだし、まあ、そっちの半額にしといてやるよ。」。そういうと、奥から貧弱な房を取り出し

てきた。懐具合を見透かされたようで、私は恥ずかしさから汗をかいた。直ぐに立ち去ろうとしたとこ

ろ、追い討ちをかけるように、「いいんだよ、ほら持ってきな。」といわれる。ところがそれすら到底払

える金額ではない。率直にそう告げると、「仕方ないねぇ」といいながら貧弱な房を更に半部にし、新聞

紙に包んでくれた。手渡された包みを脇に抱えると、私は耳を赤くしたまま早足に立ち去った。雨は上が

ったが、道はぬかるんでいる。慎重に道を選びながらも、小走りに店へと向かった。カフェーシルバー

は、中通りの突き当たりにあった。モザイク模様のタイル飾りの玄関を入ると、いもの小ズルそうな顔を

したおかみがいた。素早く口を釣り上げて無理に笑顔を作ると、「あーら、いらっしゃーい。」と声をか

けられる。私はこのおかみの含みのある笑顔と、人を見透かすようなキツネ目が苦手だった。そのちっと

も笑っていない目からは、この貧乏書生からちょっとでもふんだくってやろうという悪意すら感じられ

た。「いつものでいいですね。」と念を押され、私は小さく頷く。派手な格好をしている女給達は、所在

無げにタバコをふかしている。しばらく待っていると、二階に通された。薄暗い階段を上がり部屋に入る

と、襦袢を着た色白の女がぽつんと佇んでいた。その肌はあくまで白く、血管が浮き出ているのが見え

る。時折咳き込む彼女を気遣って、私は黙って彼女の横に腰を下ろした。「やあ」とぎこちない挨拶をす

ると、彼女は静に微笑んだ。その微笑に、私の肌はざわめく。そして、激しい血の巡りを感じる。そんな

自分を悟られまいとして、私はぶどうを差し出し言った。「そうだ、今日はぶどうを買ってきたんだよ。

一緒に食べようじゃないか。」。彼女は驚いた表情を見せたが、直ぐにうれしそうに微笑んだ。房から大

きな実を一つもぎ取ると、彼女に差し出した。彼女はその赤黒い実を受け取ると、チューチューと音を出

して吸った。私も負けじとチューチューと吸った。にこりと笑った彼女の歯は、やけに鮮やかに赤く染ま

っていた。

 彼女が亡くなったことを知ったのは、そのやや後であった。いつものように店に行くと、キツネ目のお

かみがうらめしそうに言った。「あの娘なら死んだよ。接客中に急に吐血してね。そのまま病院に運ばれ

てオジャカさ。全く! 病院代も払わずに逝っちまったよ。あんたさ、あの娘に惚れてたんだろう。だっ

たら、代わりに病院代置いてきなよ。」。私はだまって店を後にした。私の脳裏には、今でも彼女の鮮や

かな葡萄色染まった歯の残像が甦る。私のとっての葡萄は、そんなやるせない、行き場の無い思い出と共

にある。

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