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大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづる kemukemu
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「世の婦人達に」


この105年前(1913年)の文章(当時この箇所について問題とされ発禁)のエネルギーに、妙に驚きと新鮮味を感じてしまう。
そして、発売禁止処分の対象とされるこの時代の背景の重苦しさを・・・。




「世の婦人達に


・・・・(中略)


何故世の多くの婦人達には、女は一度は必ず結婚すべきものだといふことに、結婚が女の唯一の生きる道だといふことに、総ての女は良妻たり、賢母たるべきものだといふことに、これが女の生活の総てであるといふことにもつと根本的な疑問が起つて来ないのでせう。私は不思議に思ひます。長い過去の歴史や、多くの慣習や、目前の實利、便宜や、殊に男子の生活の利便の為めに成立した在来の女徳などから全然離れて、本来の女子たるものの眞の生活はいかなるものなるべきかに就いてもつと根本的な考察を試みやうともしないのでせう。
 私共は何も敢(あ)へて総ての婦人に向つて獨身主義を主張するものではありません、――獨身主義だとか、良妻賢母主義だとかいふやうなそんな主義争ひをするやうな、閑日月は有って居りません。私共は今在来の婦人の生活を根底から疑つて居るのです。最早さういふ生活を續けることに堪へなくなつて居ります。婦人は果して結婚すべきものかといふことが己に、己に久しい疑問なのでございます。種族保存の必要の前に女の全生涯は犠牲にせらるべきものか、生殖事業を外にして女のなすべき事業はないであらうか、結婚は婦人にとつて唯一絶対の生活の門戸で、妻たり、母たることのみが婦人の天職の総てであらうか、私共はもうこんなことを信ずることは出来なくなつて居ります。結婚を外にしても婦人の生活の門戸は各人個々別々に限りなくあらねばならず、婦人の天職は良妻賢母を外にしても各人個々別々に無限にあらねばならぬものではないでせうか。そしてその選擇の自由は各自の手に握られてゐるものではないのでせうか。
そんなことは最早云ふまでもないことでございます。

・・・・(中略)


 多少なり個人として自覚した現代の婦人は今迄男子から、又社会から強制されてゐた服従、温和、貞淑、忍耐、献身等の所謂(いわゆる)女徳なるものを最早有難いものだとも何とも思へなくなって居ります。何故なら私共は何故に斯くの如きことが婦人に向つて要求されたか、社会はそれを婦人の美徳として承認するに至ったか、そして終にはそう云ふのが婦人の天性だと迄信ぜられるやうに立ち至つたかの原因、其のよつて来る源に泝(さかのぼ)つて考へて見たからです。そこに私共は何を見出したでせう。私はここに是等のことを委(くわ)しくは述べますまい。
けれども「男子の生活の為め」以上に根拠ある何ものも遂になさそうです。要するに少しも根本的な価値のないことなのです。今私共に対し、何の理由もなき偏見から、因襲的な反感から理解なくして、只新しきものに対する世間の有象無象の雑言に眩惑されて無暗に反対される世の婦人達も今少し物事を根本的に考察されるやうになったなら、思ひ半ばに過ぎることとが必ず多からうと信じます。
 かふいうと、すぐ世間の婦人達は、新しい女は男に反抗することを目的にしてゐるとか、婦人の自覚といふことは何だか離婚するといふことのやうだとか勝手な早合点をされることでせう。さうです、私共は男に反抗もいたしませう。時に離婚することはあるかも知れません。けれども反抗が目的ではない。離婚が目的ではない。反抗するといふことがいい事であるか、悪いことであるか、離婚することがいい事か、悪いことか、そんなことは問ふにも足らぬほどに自分の生活そのものを、女の生活そのものを重じて居ります。今迄男子の私利、私慾や、目前の便宜のために婦人の生活が踏みにぢられてゐたのなら、それを取戻すために男子に対する反抗的態度を或時期に於てとるのは当然なことではないでせうか。今、妻と呼ばれてゐる幸福な婦人達も、もう少し眼蓋(まぶた)をこすって見た時、自分の今迄の生活に満足してゐられるでせうか。愛なくして結婚し、自己の生活の保証を得むが為めに、終生一個の男子のために昼間は下婢(かひ)として、その雑用に応じ、夜間は淫売婦として侍することを肯じてゐる妻の数は今日どれ程あるか知れないでせう。甚(はなはだ)しきは夫の過度な淫心をさへ柔順でなければならぬといふ處から受け容れて、多産の結果、衰へて仕舞ふ婦人もあるさうです。よし、又同棲後相互の愛情が生ずるにしてもそれは多くの場合、利害の打算と、便宜の結果に過ぎません。それらを超越した戀愛そのものではありますまい。
 私共はたとへ結婚そのものに反対しないまでも、今日の結婚といふ観念、並びに現行の結婚制度には全然服することが出来ないのでございます。今日の社会制度では結婚といふことは一生涯に亘る権力服従の関係ではないでせうか。妻は未丁年者か、不具者と同様に扱はれてゐないでせうか。妻には財産の所有権もなければ其子に対する法律上の権利も有ってゐないのではないでせうか。夫の姦通は罪なくして、妻の姦通は罪とせられてゐるのではないでせうか。私共はこんな無法な、不条理な制度に服して迄も結婚しやうとは思いません。妻とならうとは思いません。
 一たび目覚めたものはもう二度と眠ることは出来ない。私共は生きて居ります。目覚めて居ります。内なる生命は何處かしらに放散させねば生きてゐられません。どんな圧迫があらうとも新しき生命はその出口を見出して止みません。
 私共は今、夫人の眞生活の門戸をたづねてゐます。何處に向つて自分のこの全精力を集注すべきかに迷つてゐます。新しい女は不真面目だとか、真面目だとかいふやうなそんな呑気なことは最早私共の問題ではないのです。「真面目な、精神的な、高い、尊い、眞の生活」などといふやうなそんな輪郭ばかり何百編いかに聲を大きくして聞かされても、私共にとっては要するに何にもならないことなのです。私共は最早、小学校だけは終へました。他から説かれたり、教えられたりした、輪郭ばかりのことに眩惑されて生きて行くことは出来なくなって居ります。私共はその生活の内容を自から知らむことを求めて居ります。私共は内にはこんな不安を續けながら、外にはいはれもなき多くの迫害と闘ひながら、婦人の眞生活のいかなるものなるかを根本的に、疑い、根本的に考察、研究しつつあるのでございます。
・・・・・・・・」



平塚らいてう著『円窓より』から
(初版は大正2年5月1日発行、警視庁から発禁注意後、上の文章を削除して6月10日再発行) 
*一部、略。(なお、一部の旧漢字を、現代当用漢字に直す)




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