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大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづる kemukemu
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青い山脈 (2)

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青い山脈  【作詞】西條 八十 【作曲】服部 良一



さて、
なかにし礼は、前回の記事「青い山脈」(1)でとりあげた
「不滅の歌謡曲」という本の中で、
「戦時中、第一線で活躍するヒットメーカーのうちで、
ほとんど軍歌に手を染めることがなかった唯一の作曲家が服部良一」で、
「真に自由思想の持ち主だったから
軍国日本に協力することができなかった。」、
彼の作曲した「別れのブルース」を歌った
「淡谷のり子も反骨精神の持ち主で、どんなに官憲の迫害を受けても、
歌うことをやめず、また作詩者の藤浦洸という詩人も同様に硬骨漢で、
この三人のトリオは当時、アンチ日本情緒の歌をいくつも残しています。」
と記している。

しかし、「歌と戦争」(櫻本富雄 著)によると、
これは事実とちがっている。

まず、服部良一について。
軍歌を書かなかったのではなく、
ジャズの人だから軍歌というものが書けなかった、
また書いてもヒットしなかったというのが本当のところらしい。
実際、服部良一は、
次のような戦争への士気を鼓舞する軍歌・軍国歌謡を作曲している。

昭和11年 1936
「祖国の柱」(国民歌謡 大木惇夫 詞)
「日本よい国」(国民歌謡 今中楓渓 詞)
昭和12年 1937
「沈黙の凱旋に寄す」(国民歌謡 新居あずま 詞)
昭和13年 1938
「凱旋前夜」(中川紀元 詞)
昭和16年 1941
「兵隊さんを思ったら」(野村俊夫 詞)
昭和18年 1943
「銃後の妻」(朝倉安蔵 詞)
「鞭音高く」(高橋掬太郎 詞)
昭和19年 1944
「この仇討たん」(高橋掬太郎 詞)
「作業服」(深尾須磨子 詞)

さらに、先ほどの「歌と戦争」という本によれば、
1947年(昭和17年)「音樂の友」4月号に、
吉田信という作曲家がその「国民歌と大衆歌曲」のシリーズで、
次のように発言しているという。
「支那事変の初期、南京陥落の直後に東日から皇軍慰問団を上海南京方面に派遣したが、服部君は進んでコロムビアの歌手連と同行し、行く先々で、皇軍将士の作詞にその場で作曲してバンドが演奏し、西住戦車長の長詩なぞも、そうとは知らず南京で作曲して演奏して来たが、バンドの一員に加わっても現地へ慰問に行こうという服部君の情熱が、作品にもよく現れている。僕は服部君の作品を聞くと、いつも作曲者の情熱を感じるね。」

その後、服部良一は、1944年(昭和19年)6月にも陸軍報道班員として招集され、上海に行き、そこで宣撫活動をしている。

また、淡谷のり子であるが、戦時中、皇軍慰問団で活躍している。
藤浦洸も1943年(昭和18年)に発行された「海軍軍歌集」の解説を執筆しているし、
映画「敵は幾万ありとても」の主題歌「今ぞ決戦」の作詞をしている。


なかにし礼は、事実をきちんと調査せずに、
服部良一、淡谷のり子、藤浦洸をもちあげ、
「ほとんど軍歌に手を染めることがなかった」とか「反骨精神」、
「硬骨漢」、「アンチ日本情緒の歌」という言葉により、
彼らがあたかもリベラルな立場であったかのように書いているが、
それがただちに、戦争協力をしていなかったことにはならないはずである。

一方、「青い山脈」の作詞者である西条八十は、
積極的に軍歌・軍国歌謡を書いている。

「建設の歌」(1940年・昭和15年)、「そうだその意気」(1941年・昭和16年)、「若鷲の歌」(1943年・昭和18年)、「同期の桜」(二輪の桜)」(1944年・昭和19年)、「神風特別攻撃隊の歌」(1945年・昭和20年)

なお、「同期の桜」の原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、
昭和13年1月号の少女倶楽部に発表された西條の歌詞を元とし、
キングレコード社が昭和14年7月に「戦友の歌」として発売した歌。
昭和17年(1942年)、海軍兵学校71期生の帖佐裕が、
この詞に変更を加え、「同期の桜」という題をつけた。
この歌は彼の同期生の間で非常な人気を博し、
またたく間に海軍全体へと広がっていき、昭和19年に流行。
この歌詞は、天皇に対する犠牲と美しく散る桜を結びつけた。
(「ねじまげられた桜」大貫美恵子 著)

「二輪の桜」
君と僕とは二輪の桜
積んだ土嚢(のう)の蔭(かげ)に咲く
どうせ花なら散らなきゃならぬ
見事散りましょ、皇国(くに)のため
  ↓
「同期の桜」
貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
見事散ります(しょ) 国の為


当時の音楽界
(だけではなく、文学・、美術・ジャーナリズムの世界でも・・・)で
活躍しているものは、ほとんど例外なく軍の情報局により、
国策としての戦争協力にかり出されたのである。
または、積極的に戦争遂行努力に協力した。

作曲家では、
ほかに古関裕而(「露営の歌」、「暁に祈る」、「英国東洋艦隊潰滅」、「若鷲の歌」、「ラバウル海軍航空隊」、「「神風特別攻撃隊の歌」)や
古賀政男(「軍国の母」、「建設の歌」、「そうだその心意気」、「勝利の日まで」)、
そして山田耕筰(「凱歌」、「連峰の雲」、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」)、
作詞家ではサトーハチロー(「台湾沖の凱歌」「敵の炎」、「勝利の日まで」)などが
軍歌・軍国歌謡にかかわっていた。


そして、
戦時下の軍歌や戦意昂揚の歌の数々を担った作詞家・作曲家・歌手たちの
ほとんどが、敗戦後のヒット歌謡曲の担い手として活動している。




(次回へつづく)
・・・・・・

この記事に

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    貴重なお話で・・・勉強させていただきました。
    戦時下の中、全く国策に反しての活動は誰でも事実上不可能だと
    思います。
    慰問に行くことも・・罪?な事とは、思いません。
    でも戦争は、イヤですね!・・
    国家と言う物も恐ろしいです。

    kuniyosi

    2009/11/2(月) 午前 9:10

    返信する
  • 顔アイコン

    kuniyosiさん、実は次回で書く予定ですが、私も「不可能」であり、「罪」とか「責任」と断じることはできないのではないかという感じをもっています。なかにし礼は、それを「罪」であるときびしく断定していますが。

    [ kemukemu ]

    2009/11/2(月) 午後 4:50

    返信する

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