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大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづる kemukemu
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明治の風景

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明治の風景


<上の絵>
当時の東京の最大貧民窟の一つであった四ツ谷鮫ケ橋付近の明治36年10月夕方の風景(「風俗画報」277号)

ここに住んでいた人は、車夫(人力車をひく人)、土方などの日雇い、三味線ひき(鳥追)、いろいろな行商人、軽業などの大道芸人、縁日の商人などさまざまな職業についていたという。
現在の新宿区若葉二、三丁目、南元町一帯。


<下の絵>
東京・三味線堀の明治41年4月の風景(「風俗画報」)

その後、堀は埋立られた。現在の台東区元浅草一丁目、小島二丁目。




拡大して、絵のはじからはじまで、ゆっくり、
当時の人たちの表情と動きや町の風景などを読み取ってほしい。
特に、子どもたちの・・・・・
いまのように車もほとんど通らない路地や道は、
自然と、子どもの自由な遊び場であり、また大人たちの交流の広場になった。

いまは失われた風景。。。



・・・・・・

<名誉の戦死>

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<名誉の戦死>

万歳!万歳!、日の丸の旗と旭日旗、提灯行列の興奮、熱狂のかげで・・・

「風俗画報」第285号・明治37年3月25日発行


日露戦争開始(2月8日)直後に、
事実として描かれたものだろう。
この絵から、それぞれの葛藤や慟哭が感じられる。


・・・・・




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「帝国主義」幸徳秋水著 明治34年 (即発禁処分)
「第3章 軍国主義を論ず」から




すでに、明治34年、幸徳秋水によって、
古参兵の問題、徴兵忌避、脱走などの事実が指摘されている。

明治22年徴兵令では、満20歳の男子から抽選で3年の兵役(常備軍)とすることを定め、常備軍終了後は後備軍(予備役)としている。幸徳秋水が「三年」と書いているのは、そのこと。




<岩波文庫の注>
*りょうれいのいろ・・・がむしゃらに命令するさま
*きつかい・・・こじきのこと(原文のママ)
*牛頭馬頭の呵責・・・・ごず、めず、ともに地獄の鬼。鬼のような責め苦の意味
*るいじゃく・・・・よわいの意
*あます・・・余すの意味
*蹉跌・・・・つまずくの意





・・・・・

画像がうまく右回転しないので、
どこかに一時保存して見てください!

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「世の婦人達に」


この105年前(1913年)の文章(当時この箇所について問題とされ発禁)のエネルギーに、妙に驚きと新鮮味を感じてしまう。
そして、発売禁止処分の対象とされるこの時代の背景の重苦しさを・・・。




「世の婦人達に


・・・・(中略)


何故世の多くの婦人達には、女は一度は必ず結婚すべきものだといふことに、結婚が女の唯一の生きる道だといふことに、総ての女は良妻たり、賢母たるべきものだといふことに、これが女の生活の総てであるといふことにもつと根本的な疑問が起つて来ないのでせう。私は不思議に思ひます。長い過去の歴史や、多くの慣習や、目前の實利、便宜や、殊に男子の生活の利便の為めに成立した在来の女徳などから全然離れて、本来の女子たるものの眞の生活はいかなるものなるべきかに就いてもつと根本的な考察を試みやうともしないのでせう。
 私共は何も敢(あ)へて総ての婦人に向つて獨身主義を主張するものではありません、――獨身主義だとか、良妻賢母主義だとかいふやうなそんな主義争ひをするやうな、閑日月は有って居りません。私共は今在来の婦人の生活を根底から疑つて居るのです。最早さういふ生活を續けることに堪へなくなつて居ります。婦人は果して結婚すべきものかといふことが己に、己に久しい疑問なのでございます。種族保存の必要の前に女の全生涯は犠牲にせらるべきものか、生殖事業を外にして女のなすべき事業はないであらうか、結婚は婦人にとつて唯一絶対の生活の門戸で、妻たり、母たることのみが婦人の天職の総てであらうか、私共はもうこんなことを信ずることは出来なくなつて居ります。結婚を外にしても婦人の生活の門戸は各人個々別々に限りなくあらねばならず、婦人の天職は良妻賢母を外にしても各人個々別々に無限にあらねばならぬものではないでせうか。そしてその選擇の自由は各自の手に握られてゐるものではないのでせうか。
そんなことは最早云ふまでもないことでございます。

・・・・(中略)


 多少なり個人として自覚した現代の婦人は今迄男子から、又社会から強制されてゐた服従、温和、貞淑、忍耐、献身等の所謂(いわゆる)女徳なるものを最早有難いものだとも何とも思へなくなって居ります。何故なら私共は何故に斯くの如きことが婦人に向つて要求されたか、社会はそれを婦人の美徳として承認するに至ったか、そして終にはそう云ふのが婦人の天性だと迄信ぜられるやうに立ち至つたかの原因、其のよつて来る源に泝(さかのぼ)つて考へて見たからです。そこに私共は何を見出したでせう。私はここに是等のことを委(くわ)しくは述べますまい。
けれども「男子の生活の為め」以上に根拠ある何ものも遂になさそうです。要するに少しも根本的な価値のないことなのです。今私共に対し、何の理由もなき偏見から、因襲的な反感から理解なくして、只新しきものに対する世間の有象無象の雑言に眩惑されて無暗に反対される世の婦人達も今少し物事を根本的に考察されるやうになったなら、思ひ半ばに過ぎることとが必ず多からうと信じます。
 かふいうと、すぐ世間の婦人達は、新しい女は男に反抗することを目的にしてゐるとか、婦人の自覚といふことは何だか離婚するといふことのやうだとか勝手な早合点をされることでせう。さうです、私共は男に反抗もいたしませう。時に離婚することはあるかも知れません。けれども反抗が目的ではない。離婚が目的ではない。反抗するといふことがいい事であるか、悪いことであるか、離婚することがいい事か、悪いことか、そんなことは問ふにも足らぬほどに自分の生活そのものを、女の生活そのものを重じて居ります。今迄男子の私利、私慾や、目前の便宜のために婦人の生活が踏みにぢられてゐたのなら、それを取戻すために男子に対する反抗的態度を或時期に於てとるのは当然なことではないでせうか。今、妻と呼ばれてゐる幸福な婦人達も、もう少し眼蓋(まぶた)をこすって見た時、自分の今迄の生活に満足してゐられるでせうか。愛なくして結婚し、自己の生活の保証を得むが為めに、終生一個の男子のために昼間は下婢(かひ)として、その雑用に応じ、夜間は淫売婦として侍することを肯じてゐる妻の数は今日どれ程あるか知れないでせう。甚(はなはだ)しきは夫の過度な淫心をさへ柔順でなければならぬといふ處から受け容れて、多産の結果、衰へて仕舞ふ婦人もあるさうです。よし、又同棲後相互の愛情が生ずるにしてもそれは多くの場合、利害の打算と、便宜の結果に過ぎません。それらを超越した戀愛そのものではありますまい。
 私共はたとへ結婚そのものに反対しないまでも、今日の結婚といふ観念、並びに現行の結婚制度には全然服することが出来ないのでございます。今日の社会制度では結婚といふことは一生涯に亘る権力服従の関係ではないでせうか。妻は未丁年者か、不具者と同様に扱はれてゐないでせうか。妻には財産の所有権もなければ其子に対する法律上の権利も有ってゐないのではないでせうか。夫の姦通は罪なくして、妻の姦通は罪とせられてゐるのではないでせうか。私共はこんな無法な、不条理な制度に服して迄も結婚しやうとは思いません。妻とならうとは思いません。
 一たび目覚めたものはもう二度と眠ることは出来ない。私共は生きて居ります。目覚めて居ります。内なる生命は何處かしらに放散させねば生きてゐられません。どんな圧迫があらうとも新しき生命はその出口を見出して止みません。
 私共は今、夫人の眞生活の門戸をたづねてゐます。何處に向つて自分のこの全精力を集注すべきかに迷つてゐます。新しい女は不真面目だとか、真面目だとかいふやうなそんな呑気なことは最早私共の問題ではないのです。「真面目な、精神的な、高い、尊い、眞の生活」などといふやうなそんな輪郭ばかり何百編いかに聲を大きくして聞かされても、私共にとっては要するに何にもならないことなのです。私共は最早、小学校だけは終へました。他から説かれたり、教えられたりした、輪郭ばかりのことに眩惑されて生きて行くことは出来なくなって居ります。私共はその生活の内容を自から知らむことを求めて居ります。私共は内にはこんな不安を續けながら、外にはいはれもなき多くの迫害と闘ひながら、婦人の眞生活のいかなるものなるかを根本的に、疑い、根本的に考察、研究しつつあるのでございます。
・・・・・・・・」



平塚らいてう著『円窓より』から
(初版は大正2年5月1日発行、警視庁から発禁注意後、上の文章を削除して6月10日再発行) 
*一部、略。(なお、一部の旧漢字を、現代当用漢字に直す)




・・・・・・

美当一調

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いま見直したい、美当一調。



「人間僅か(わずか)五十年、下典(げてん)の中に較(くら)ぶれば、夢幻(まぼろし)の如くなり、一たび娑婆に生を受け、滅びぬ者のあるべきぞ、生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)とは、仏(ぶつ)の教(おしへ)と知られたり、我日本の軍人は此の理(ことわり)を弁(わきま)へたるか、既に日清戦争に、千里の波濤(なみ)を蹴破つて朝鮮国に押渡り、焼くが如きの炎暑を犯し、肌(はだへ)も氷る雪の日も、或(あるい)は風に櫛(くしけづ)り、或は雨に身を注ぎ、死して原野に屍(かばね)を曝す、語るも聞くも涙なる、日清戦争概略談。」

(1898年『日清戦争談』第一巻のはじめの部分)






「去(さん)ぬる日露の戦争に、馴(な)れし故郷を後にして、父母ある人は父母に別れ、妻子持つ身は妻子を捨て、厳寒酷暑の嫌ひなく、千苦万苦を嘗(な)め尽くし、・・・・・・世界に誇る大敵に、戦ふ毎に打ち勝ちて、国威を万国に輝やかせしも、只(た)だ憾(うら)むらくは戦死者の、名のみ残して其(そ)の人の、影だに見えぬ今の世に、語り出るも涙の種。」

(1908年『日露戦争談』第六編、南山攻撃の一節)







*<『明治大正の娯楽』倉田喜弘 著から>




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