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大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづる kemukemu
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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から 〜4
(デーヴ・グロスマン著)




「 ダイアもまたこの問題を真剣にとりあげ、理解を深めていった。彼の調査に応じた人々がよく知っていたこと、そしてダイア自身も理解していたのはこういうことだー

 「人は強制されれば人を殺す。それが自分の役割だと思えば、そして強い社会的圧力を受けていれば、人はおよそどんなことでもするものだ。しかし、人間の圧倒的多数は生まれながらにしての殺人者ではない」

 この問題にまともにぶち当たることになったのが、アメリカ陸軍航空隊(現アメリカ空軍)である。第二次大戦中、撃墜された敵機の30〜40パーセントは、全戦闘機パイロットの1パーセント未満が撃墜したものだとわかったのである。ゲイブリエルによれば、ほとんどの戦闘機パイロットは「1機も落としてないどころか、そもそも撃とうとさえしていなかった」

・・・・・

いざという瞬間になると、敵機のコクピットに人間の顔が見える。パイロット、飛行機乗り、<空の兄弟>のひとり、恐ろしいほど自分とよく似た男の顔。そんな顔を目にしては、ほとんどの兵士が相手を殺せなくなるのも無理はない。戦闘機のパイロットも爆撃機のパイロットも、自分と同種の人間と空中戦を戦うという恐ろしいジレンマに直面する。

(中略)

 ごくふつうの人間は、なにを犠牲にしても人を殺すのだけは避けようとする。このことはしかし、戦場の心理的・社会的圧力の研究ではおおむね無視されてきた。同じ人間と目と目が会い、相手を殺すと独自に決断を下し、自分の行動のために相手が死ぬのを見るー戦争で遭遇するあらゆる体験のうちで、これこそ最も根源的かつ基本的な、そして最も心的外傷を残しやすい体験である。このことがわかっていれば、戦闘で人を殺すのがどんなに恐ろしいことか理解できるはずだ。」




「 情報化の進んだ現代社会では、殺人はたやすいという神話の助長にマスコミが大きく貢献しており、殺人と戦争を美化するという社会の暗黙の陰謀に加担する結果になっている。ジーン・ハックマンの「バット21」(ある空軍将校が気まぐれに自分の身近な人々を殺してしまい、自分の行為に恐れおののく)のような例外はあるものの、だいたいにおいて映画に登場するのはジェームズ・ボンドであり、・・・、ランボーであり、インディ・ジョーンズだ。かれらはあたりまえのような顔をして何百人もの人間を殺してゆく。ここで重要なのは、マスコミの描く殺人も、これまで社会が描いてきた図と同じく実態からはほど遠く、鋭い洞察など薬にしたいほどもないということだ。


(中略)



しかし、この問題があまり注目されていないのは、極秘の基本計画のせいなどではない。哲学者にして心理学者であるピーター・マリンの言葉を借りれば、<大がかりな無意識の隠蔽>のせいなのである。これによって、社会は戦争の本質から目をそむけているのだ。戦争についての心理学・精神医学の文献にさえ、「一種の狂気が作用している」とマリンは書いている。「殺人に対する嫌悪感および殺人の拒絶は、<戦闘に対する急性反応>と呼ばれ、<殺戮および残虐行為>によるトラウマは、「ストレス」と呼ばれる。まるでエグゼクティブの過労のことでも話しているかのようだ」。「文献をいくら読んでも、実際に戦場で起こっていることはちらとも見えてこない。戦争のほんとうの恐ろしさも、そこで戦う者が受ける影響についても」。
心理学者として、マリンのこの指摘はまったく正しいと私は思う。
 いまでは、この種(発砲率など)の問題を50年以上も機密にしておくのはまず不可能だ。軍のなかでも心ある人々は声をあげているのだが、彼らの訴える真理に耳を貸そうとする者がいないのである。
 これは軍の陰謀などではない。たしかに隠蔽もあり、「暗黙の緘口令」もあるが、それは文化による陰謀である。私たちの文化は、何千年も前から戦闘の本質を忘却し、歪曲しあるいは偽ってきた。」





(つづく)

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から 〜3
(デーヴ・グロスマン著)



「 敵の頭上高く発砲する、進んで発砲する者の手助けをする(装填を引き受けるなど)。このふたつのほかに選択肢はもうひとつある。デュピクはこのことをよく理解していた。
「脱落して姿を消す者もいる。かれらを襲ったのが銃弾か、それとも前進することへの恐怖なのか、いったいだれにわかるだろう」。
軍事心理学の分野で当代一流の著述家である、リチャード・ゲイブリエルはこう述べている。
「ワーテルローやセダン規模の戦いでは、単にその場に倒れて泥のなかにじっとしているだけで、発砲しなくてすみ、また上官の命令に逆らって攻撃を拒否する必要もなくなる。銃火におびえる兵士がこんなチャンスに気づかないはずがない」
実際、誘惑は大きかっただろうし、その誘惑に負けた者も多かったにちがいない。
 
(中略)

 ここから明らかなのは、ほとんどの兵士は敵を殺そうとしていなかったということだ。おおよそ敵の方向に発砲することさえしなかったわけである。マーシャルが結論したように、兵士の大半は戦闘中に発砲することに対して、身内に抵抗感を抱えていたように思える。ここで重要なのは、そんな抵抗感はマーシャルが発見するずっと以前から存在していたということ、そして銃に複数の弾丸が装填されていたのは、多くの場合この抵抗感のためだったということである。」



「・・・一斉射撃状況下では、デュピクの言う権威者と仲間とによる<相互監視>が、発砲をうながす強力な圧力を生み出したにちがいない。
 ここには、一斉射撃のあいだに隠れていられるような、<現代の戦場における孤立と分散>状況は存在しない。一挙一投足が、肩を並べて立つ戦友の目にさらされているのだ。それでもどうしても発砲できない、したくないとすれば、ごまかす手段はただひとつ、銃を装填し(弾薬包を破り、火薬を流し込み、弾薬を填め、雷管をつけ、打金を起こす)、肩にかまえ、だが実際には発砲しないことだ。近くの者が発砲したときに合わせて、銃の反跳のまねをするぐらいはしただろう。」




「 人を殺すことへの抵抗感が存在すること、それは少なくとも黒色火薬の時代から存在していたらしいこと、このことを示す資料は膨大に存在する。敵を殺すことをためらうあまり、多くの兵士は闘争という手段を採らず、威嚇、降伏、逃避の道を選ぶのだ。戦場では、このためらいが強烈な心理学的力として作用する。この力を当てはめ、また理解することによって、軍事史、戦争の本質、そして人間の本質を新しい視点からとらえなおすことができるだろう。」





(つづく)

その1『戦争における「人殺し」の心理学』から 〜2
(デーヴ・グロスマン著)



「 言うまでもなく、マスケット銃(*砲身や銃身の先端側の銃砲口から砲弾や銃弾、装薬を装てんする方式の歩兵銃)やライフル銃(*兵士が個人用に使うための軍用銃)を撃つという行為は、生物の本性に深く根ざした欲求、つまり敵を威嚇したいという欲求を満足させる。と言うよりむしろ、なるべく危害を与えたくないという欲求を満たすのである。このことは、敵の頭上に向けて発砲する例が歴史上一貫して見られること、そしてそのような発砲があきれるほど無益であることを考えればわかる。
 兵士には一般に、ただ発砲するだけのために空に向かって無駄撃ちをするという傾向があるが、このことを初めて記録に残した人物にアンダン・デュピクがいる。1860年代、フランス軍将校を対象にアンケートを行って、戦闘のなんたるかについて徹底的に研究したのである。

(中略)

また、ある将校はこう述べている。
「自軍の兵士のなかには、危険にわれを忘れて狙いもつけずに空に向かって発砲する者もいた。恐怖を紛らすと同時に、発砲という行動に酔いたがっているように見えた」。 」



「先填(ご)め式マスケット銃は、射手の熟練度や銃の状態によって、1分間に1発から5発の弾丸を発射できた。この時代の平均的な射程距離なら、ゆうに50%を超す命中率期待できたのだから、殺傷数は1分あたり100人単位になるはずであり、わずかひとりかふたりというのはおかしい。これらの部隊の殺傷能力と殺傷実績とがそのまま結びつかないのは、兵士の側に原因がある。つまり、標的のときとちがって、生きて呼吸をしている敵に相対すると、兵士の圧倒的多数が威嚇段階に後退して、敵の頭上めがけて発砲してしまうのだ。」


「兵士の訓練法は、同種である人間を殺すことへの本能的な抵抗感を克服するために発達してきたのである。高度な訓練を受けた近代的な軍隊が、ろくに訓練もされていないゲリラ部隊と交戦するーこんな戦闘はさまざまな状況下で起きているが、そのような場合、訓練が不十分な兵士は本能的に威嚇行動をとる(たとえば空に向かって発砲するなど)傾向があり、高度に訓練された兵士の側にそれが非常に有利に働いている。」


「威嚇よりもさらに驚くべき行動をとる兵士がいる。これまたきわめて明白な事実なのだが、敵の頭上めがけて発砲するどころか、まったく発砲しない兵士がいるのである。この点で、かれらの行動は動物界の<降伏>という行動に非常によく似ている。つまり、敵の攻撃性と断固たる態度を前にして、逃避、闘争、威嚇のいずれもとらず、おとなしく<降伏>という選択肢をとるわけだ。」


「・・・S・L・A・マーシャル将軍は、第二次世界大戦の米軍兵士のうち発砲した者は15ないし20パーセントだったと結論した。・・・現代の戦場では軍は分散しているので、発砲率の低さはそのためかもしれない。攻撃の抑制と発動のメカニズムを左右する複雑な公式において、分散というのはたしかにひとつの要素ではある。
 しかし、数名の銃手が持ち場に着いているところへ敵が接近してくるという状況にあっても、実際に発砲するのはただひとりで、残りの者は伝令を務めたり、弾薬を補充したり、負傷者を手当てしたり、目標を観測するといった「必要不可欠な」任務を遂行しようとする傾向があるという。また、発砲している兵士の多くは、自分のまわりに非発砲者がおおぜいいることに気がついている、とマーシャルははっきり指摘している。だが、このような受け身の人間がいるからといって、発砲している兵士の士気がそがれることはなかったようだ。逆に、発砲しない者の存在が、さらに発砲をうながす効果を及ぼしているようなのである。

・・・・・

同種である人間を殺すのをためらう傾向は、戦争の歴史を通じてつねにはっきりと現れているのである。」






(つづく)

突然、番外編!



『ベトナム戦争神経症』(1978年、フィグレー編)の第2章「戦闘ストレスの精神力動」P65に、次のような記載がある。


「外傷性戦争神経症
・・・・・
 カーディナー(1959)の記載した外傷性神経症は、破局的な夢、過敏(大きな音に敏感になっている等)、攻撃性があり、時には暴力行為におよぶこともある。しかし、またその人間はある時は、極端に優しかったり、しゅんとしたりするということが特徴である。それに加えて健忘や記憶障害、心身症も起こる。

(中略)

 多くの学者(ヴァンパッテンおよびエモン,1973、ソロモン,1971)は、この分類に入れられる患者はよく誤診されていると指摘した。すなわち、自我機能の萎縮は、しばしば分裂病性荒廃に似ているし、また世界は敵の横行する場所だというような恐怖症は、しばしば精神病的な迫害妄想と誤ってとられてしまう。しばしば彼らは、ほとんど幻覚にも似た強迫的な記憶に苦しむ。それはたとえば東洋人の顔とか低空飛行の飛行機とかその他の、戦争と関連した事柄の記憶である。シャータン(1973)は、この夢のような体験を「フラッシュバック」とよんでいる。
 これらの症状群をこのように理解することは、外傷体験を言語的に再体験するという治療と関係するゆえにフェノチアジン系などの薬物療法よりも治療的意味で大事である。」



 ところで、下のように数年前から精神科医の世界では理解が浸透しながらも、実は、特に一般の精神科医(主に中学生以上を対象とする精神科医)が当事者や家族、福祉関係者、社会などにタブーにしていることがらがある。
 それは、知的な遅れを伴わない「アスペルガー症候群」等発達障害(自閉症スペクトラム)の二次症状(障害)が「統合失調症」と診断・治療されてきた事実や可能性である。
 二次症状(障害)のきっかっけは、おそらく、その特性が周囲から理解されず、「異端の排除」という日本の風土の中で、対象となりやすい「いじめ」や「激しい暴力・叱責」などだろう。それらが強い心的外傷となり、うつ、不安、ひこもり、妄想や幻覚のような症状、強迫的な被害感、記憶の想起としてのフラッシュバック、パニック、攻撃性・かんしゃく・・・などいろいろな精神症状をひきおこすといわれている。
 例えば、上の『ベトナム戦争神経症』の文章の「戦争」という言葉を「いじめ等」に置き換えれば、わかりやすいかもしれない。
 
 このことを依然としてタブーにしている一般の精神科医にも、
\里(大人の)発達障害の概念がなかった△い泙気蘓巴任慮直しはできない、見直しすることが怖い=自分の診断能力を疑うことになるからJ拔してこなかった、よくわからない、自信がない、いまさらこの歳になって勉強したくないた巴琶儿垢聾躾任箸澆覆気譴覿欧譴あり、自らの精神科医生命を揺るがすことになるダ人の発達障害の確定診断には心理テスト等の手間と時間、人材が必要で、採算面で心配→できたら避けたいλ棆擦箸靴討蓮⊃甘たりがあればどこかの専門医に転院してほしい
などの、言い分や事情があるのかもしれない。

 しかし、本来、診断名が変われば、理解と対応・支援方法や治療法も変わってくるはずである。現に、気づかれないまま、統合失調症の診たてのもとでの薬物療法により、混乱を招き、しわよせが来ているのは患者や家族のほうである。
一般の精神科医には、もっと、「発達」(子どもから大人まで、一人の人の生きた歴史としてみる)や「心的外傷」の視点(心理的な影響を与えている原因を重視する)を持ってほしいものだ。現在の「症状」だけを細分化し、それごとに病名をつけるのでは、おそらく、人の全体は見えてこないだろうと思う。症状には、何らかの意味や原因や背景があるものが多い。

 一方、現在、発達障害などにくわしい児童精神科医は、一般に小学生(場合によって中学生)までを対象としている。それ以上のいわゆる「大人の発達障害」の人を対象とし、その診断や治療などの経験を積んだ専門医が少ないのが現状で、そのため受け皿の空白ができ、多くの人が行き場に迷っているようである。そして、児童精神科医と一般の精神科医の連携も、不十分ともいわれている。

 現在の精神医療は、「発達」や「心的外傷(トラウマ)」の視点なくして、適切な診断は、成り立たないと思われるのだが・・・・。


 しかし、発達障害の社会への理解の浸透とともに、社会で少し変わっている、空気が読めない、ユニークな特性をもつ人を「発達障害」などとレッテルを貼る風潮も、問題がないとはいえない。それじたいが「いじめ」につながり、心的外傷を与えるものにもなる。
 さらに、ADHDに対する薬として、それまで18歳未満が保険適応だったコンサータやストラテラが、数年前から18歳以上の人にも保険適応対象となり(解禁され)、そのせいか急に「大人のADHD」のキャンペーン(?)も増え、本屋に行くと「発達障害」バブルという印象がある。


*なお、多くの専門家によれば、統合失調症と発達障害の併存・合併はまったくないとはいえないが、あってもごくまれという。



≪以下は、素人のkemukmuの調査結果‐2015年≫

★これまで、一部の「アスペルガー症候群」等発達障害(自閉症スペクトラム)のストレス・トラウマ関連の二次症状(障害)が「統合失調症」と診断された事実や可能性(されやすい)を指摘している主な精神科医等 
  
*〜は、出典資料・文献(「 」)・書籍(『 』)       
           
<小児科医・発達障害専門>

●平岩幹男(東京大学非常勤講師)
「残念なことに高機能自閉症の診断が適切にされずに、その他の疾患、たとえば解離性障害や統合失調症などと診断されて、多くの薬を飲んでいるけれども改善しないという場面に遭遇することもあります。・・・・」〜『自閉症スペクトラム障害』(2012)


<児童精神科医>

●杉山登志郎(浜松医科大学特任教授)
「成人を中心に臨床をおこなってこられた精神科医もこの問題に気づきはじめている。統合失調症と診断されてきた青年のなかに凸凹レベルまで含めた自閉症スペクトラム障害が少なからず混入していることは疑いがない。
 この問題に加え、抗精神病薬の大量投与という問題が絡み、今日大きな論議になっている。ピンポイントで薬が効かないので、薬物療法で十分な成果が出ない。すると多剤が用いられ、さらに薬の量が増えて、病態がごちゃごちゃになってしまう。
 こういった成人の治療への見直しをおこなっている精神科医に聞くと、発達障害の併存症の見逃しは、非定型的な統合失調症と診断されている患者に少なくなく、統合失調症診断を受けている患者の三割とも、五割とも、七割(!)ともいえる可能性があるという。」
〜『そだちの臨床」(2009)、『発達障害のいま』(2011)、『発達障害の薬物療法』(2015)ほか多数

●清水 誠(横浜カメリアクリニック非常勤)
〜「児童精神科医からみた精神科処方」、「発達障害概念が精神科医療に及ぼす影響」(2011)

●内山登紀夫(福島大学教授、よこはま発達クリニック院長)
〜「成人期に高機能自閉症スペクトラム障害と診断された自験例10例の検討」(2014)、「発達障害の鑑別診断−併存障害の捉え方と留意点」(精神科医療Topic no.20)

●岡田 俊(名古屋大学准教授)
〜「統合失調症の鑑別診断―発達障害との鑑別をめぐって」(精神科医療Topic no.17)、「青年期の広汎性発達障害における併存障害とその介入」(2010 第106回 日本精神神経学会学術総会講演)

●山崎晃資(日本自閉症協会会長)
〜「高機能広汎性発達障害の人々への精神科医療の対応」(2007)、「成人期のアスペルガー症候群の診断上の問題」(『精神医学』2008年7月号)

●根來秀樹 (奈良教育大学教授)
〜「発達障害なのに、統合失調症と誤診されているケースがある」(雑誌「精神看護」2014年3月号)

●本田秀夫(信州大学医学部附属子どものこころ診療部長)
〜「成人の発達障害―類型概念、鑑別診断および対応」(2013 第109回日本精神神経学会学術総会 教育講演)

●十一元三(京都大学教授)
〜「広汎性発達障害と2次障害」(2010 発達障害支援従事者養成研修会での講演)

●安藤久美子ほか(国立精神神経医療研究センター)
〜「統合失調症様症状を示す自閉症スペクトラムの成人例」(『精神科治療学』2012年5月号)

●吉川領一(長野赤十字病院精神科、現在は飯山赤十字病院
院長)
〜「統合失調症と診断されたアスペルガー症候群の6症例」
(『臨床精神医学』2005年34巻)

●丸山洋子ほか(浜松医科大学特任助教)
〜「自閉スペクトラム症とトラウマ」
(『臨床精神医学』2015年1月号)


<一般精神科医>

●中安信夫(日本精神病理学会理事長)
〜「アスペルガー症候群と統合失調症周辺群」特集にあたって(『精神科治療学』(2008年2月号)

●青木省三(岡山・川崎医科大学教授)
〜「成人期の自閉症スペクトラム(第14章)」(『精神科治療の進め方』2014)

●広沢正孝(順天堂大学教授)
「成人の精神医療現場では、長年にわたり統合失調症の診断の元に、本人も家族も暗黙のうちに統合失調症患者としての人生や家族生活を送ってきた高機能PDD(広汎性発達障害)者に出会うこともある。さらに精神科外来や病棟には、「とりあえず統合失調症を疑う患者」、「統合失調症と言われてきた患者」が存在し、その中にも高機能PDD者として見直したほうがよいと思われる症例が想像以上に含まれている。このような患者に対して、われわれは可能な限り適切な診断と、何よりも適切な対応を行うことが喫緊の課題といえよう。」
〜『こころの構造からみた精神病理』(2013)

●斎藤 環(筑波大学教授)
「2000年代以降急速に認知が広がった・・・発達障碍との混同ぶり・・・。精神症状は顕著でないが疎通感に乏しく、社会参加にも問題を抱えがちな一群(*発達障碍)を、われわれは例えば「単純型分裂病」や「分裂病質人格障害」などと、診断してきた。「精神病理学」もまた、長く「自閉症」を定位できないままだった。」
〜『現代思想』2015年5月号、「ひきこもり心理状態への理解と対応」(2011 内閣府発行「ひきこもり支援者読本」)ほか

●鈴木國文(名古屋大学教授)
「アスペルガー障害を含む広汎性発達障害という概念は統合失調症の臨床的理解に大きな影響を与えた。この概念が浸透する以前に統合失調症と診断された症例の一部に現在ならアスペルガー障害と診断されるべき症例が含まれていることは間違いない。・・・・」
〜『精神病理学から何が見えるか』(2014年)、「統合失調症の素因、前駆期、発症―広汎性発達障害との比較」(『精神科治療学』(2008.2)

●中井久夫(神戸大学名誉教授)
「大人のむずかしい例には、当然ありうる。アスペルガー障害は、・・・・・実際にはかなり(*統合失調症と)誤診されて精神病院を出たり入ったりしている場合があるんじゃないかと思います。」〜2002年の講演「統合失調症の経過と看護」(『徴候・記憶・外傷』所収 2004)

●神田橋條治
〜2008年講演「誤診と誤治療」(『精神科講義』所収 2012)、2008年講演「難治症例に潜む発達障碍」(『臨床精神医学』2009年3月号)

●市橋秀雄(市橋クリニック院長、元福島大学教授、2014日本外来臨床精神医学会会長)
〜「統合失調症をなぜ誤診するのか」(『こころの科学』2012年7月)

●柏 淳(ハートクリニック横浜 院長)
〜「一般精神科クリニックにおける発達障害の診療」(『精神科治療学』2014年10月号)


<内科医・精神薬理学>

●長嶺敬彦(精神科病院の内科部長を経て、いしい記念病院)
「統合失調症や強迫性障害と誤診されている発達障害者の大多数が成人なのだ。彼らは、不必要な向精神薬(抗精神病薬やSSRIなど)を長年にわたって処方され、本来の発達上の問題に薬の副作用が加わり、複雑な病像を呈している。しかし、あきらめるのはまだ早い。症状の寄せ集めでなく全体像を見て判断すれば、発達障害と統合失調症は意外と簡単に区別できる。」
〜『精神科セカンドオピニオン2』(2010)





(「戦争とストレス」語録はつづく)

「戦争とストレス」語録



その1『戦争における「人殺し」の心理学』から 〜1
(デーヴ・グロスマン著)




「心に痛手を受ける体験をしたとき、それをだれにも話さずにいると深く傷つくことになりやすい。人に話すことは、自分の体験を客観的に眺めるのに役立つ。だが内に秘めたままにしていると、私が心理学を教えた学生のひとりがかつて言ったように、「生きながら内側から喰い荒らされる」ことになる。」



「兵士たちは、戦争の本質を見抜いている。
・・・・
かれら自身のことばは、戦士と戦争が英雄的なものだという神話を打ち砕く。」



「一般に、健全な人間は殺人というテーマには不安を抱くものだ。・・・

私たちは<暴力という闇の美>に惹かれる自分自身を認めようとせず、攻撃性を非難・抑圧するばかりで、真正面から見すえて理解し、制御しようとしないのである。
・・・・

殺した者の苦しみの中核には、殺された者の苦痛と喪失がある。それはつねに、殺した者の魂の奥に鳴り響いているのだ。」



「平均的かつ健全な個人、すなわち戦闘の精神的・肉体的ストレスに耐えることのできる者でも、同胞たる人間を殺すことに対して、ふだんは気づかないながら内面にはやはり抵抗感をかかえているのである。(マーシャル)

・・・
殺人を研究するうえでまず理解したいのは、平均的な人間には、同胞たる人間を殺すことへの抵抗感が存在するということだ。

・・・・・

第二次大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか15から20パーセントしか敵に向かって発砲していない。発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない(多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するよりも危険の大きい仕事を進んで行っている)。ただ、敵に向かって発砲しようとしないだけなのだ。日本軍の捨て身の集団突撃にくりかえし直面したときであさえ、かれらはやはり発砲しなかった。
 問題は、なぜかということだ。なぜ兵士たちは発砲しなかったのか?
・・・・・・・

その要因とはすなわち、ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する、という単純にして明白な事実である。その抵抗感はあまりに強く、克服できないうちに戦場で命を落とす兵士が少なくないほどだ。」






(つづく)

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