ここから本文です
大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづる kemukemu
路上でパフォーマンスをしているだけでもすごい!写真・画像は右下の拡大マークをクリック!

書庫全体表示

記事検索
検索

イメージ 1

1979年(昭和54年)1月17日(水)






*必ずクリックして拡大


・・・・・・・・

中井久夫(1934年生)

「戦争と平和 ある観察」(2005)

*『樹をみつめて』みすず書房(2006)
または『戦争と平和 ある観察』人文書院(2015)から




「 しばしば「やられる前にやれ」という単純な論理が訴える力を持ち、先制攻撃を促す。虫刺されの箇所が大きく感じられて全身の注意を集めるように、局所的な不本意状態が国家のありうべからざる重大事態であるかのように思えてくる。指導層もジャーナリズムも、その感覚を煽る。
 日中戦争の遠因は、中国人の「日貨排斥運動」を条約違反として執拗に責めたことに始まる。当時の日本軍官民の態度は過剰反応としか言いようがない。実際、同時に英貨排斥運動も起こっているが、英国が穏やかにしているうちに、日本だけが標的になった。
 戦争への心理的準備は、国家が個人の生死を越えた存在であるという言説がどこからともなく生まれるあたりから始まる。そして戦争の不可避性と自国の被害者性を強調するところへと徐々に高まっていく。実際は、後になってみれば不可避的どころが選択肢がいくつも見え、被害者性はせいぜいがお互い様なのである。しかし、そういう冷静な見方の多くは後知恵である。
 選択肢が他になく、一本道を不可避的に歩むしかないと信じるようになるのは民衆だけではない。指導層内部でも不可避論が主流を占めるようになってくる。一種の自家中毒、自己催眠である。1941年に開戦を聴いた識者のことばがいちように「きたるべきものがきた」であったことを思い出す。その遙か以前からすでに戦争の不可避性という宿命感覚は実に広く深く浸透していたのであった。換言すれば、一般に進むより引くほうが百倍も難しいという単純きわまることで開戦が決まるのかもしれない。日本は中国からの撤兵を迫られて開戦に踏み切った。・・・・」



「 戦争の前には独特の重苦しい雰囲気がある。これを私は<(軍神)マルス感覚>と呼んだことがある。いっそ始まってほしいというほどの、目には見えないが今にもはちきれそうな緊張感がある。・・・・・・
 そのせいか、戦争開始直後には反動的に躁的祝祭的雰囲気がわきおこる。太平洋戦争の開戦を聞いて「ついにやった!」「ざまあみろということであります」と有名人が叫んでいた。太平洋戦争初期の戦争歌謡は実に軽やかな旋律であって無重力的ともいうべく、日中戦争時の重苦しくまさに「自虐的」な軍歌と対照的であった。第一次大戦でも開戦直後には交戦国民のすべてが高揚し、リルケのような抒情詩人さえ陶酔的な一時期があった。」






(つづく)

・・・・・

イメージ 1

1969年(昭和44年)1月20日(月)



東大紛争の中、全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していたが、大学から依頼を受けた警視庁が1969年(昭和44年)1月18日から1月19日にかけて封鎖解除を行った。

*上の番組表のNHK(1チャンネル)の午後10時30分・時の動き「東大関係」はこれをさしている。



*必ずクリックして拡大




・・・・・・・

イメージ 1

1959年(昭和34年)1月23日(金)

ラジオ番組も含む

*必ずクリックして拡大





・・・・・・・


(「昔のテレビ番組表」つづく)

中井久夫(1934年生)

「戦争と平和 ある観察」(2005)

*『樹をみつめて』みすず書房(2006)
または『戦争と平和 ある観察』人文書院(2015)から




「 平和の論理がわかりにくいのは、平和の不名誉ではないが、時に政治的に利用されて内部で論争を生む。また平和運動の中には近親憎悪的な内部対立が起こる傾向がある。時とともに平和を唱える者は同調者しか共鳴しないことばを語って足れりとするようになる。
 これに対して、戦争の準備に導く言論は単純明快であり、簡単な論理構築で済む。人間の奥深いところ、いや人間以前の生命感覚にさえ訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。これらは多くの者がふだん持ちたくても持てないものである。戦争に反対してこの高揚を損なう者への怒りが生まれ、被害感さえ生じる。仮想された敵に「あなどられている」「なめられている」「相手は増長しっ放しである」の合唱が起こり、反対者は臆病者、卑怯者呼ばわりされる。戦争に反対する者の動機が疑われ、疑われるだけならまだしも、何かの陰謀、他国の廻し者ではないかとの疑惑が人心に訴える力を持つようになる。
 さらに、「平和」さえ戦争準備に導く言論に取り込まれる。すなわち第一次大戦のスローガンは「戦争をなくするための戦争」であり、日中戦争では「東洋永遠の平和」であった。戦争の否定面は「選択的非注意」の対象となる。「見れども見えず」となるのである。」




「 平和の時には戦争に備え、戦争の際には平和を準備するべきだという見解はもっともであるが、戦争遂行中に指導層が平和を準備することは、短期で戦勝に終わる「クラウゼヴィッツ型戦争」の場合にしか起こらない。
 ・・・・・
短期決戦による圧倒的戦勝を前提とする平和は現実には稀である。・・・・妥協による講和が望みうる最良のものであるが、外征軍が敵国土に侵攻し、戦争目的が体制転覆さらには併合である場合の大多数では、侵攻された側の抵抗は当然強固かつ執拗となり、本来の目的が容易ならぬ障壁に遮られ、しばしば「戦争の堕落」とでもいうべき事態が起こる。」



「 実際、人間が端的に求めるものは、「平和」よりも「安全保障感」である。人間は老病死を恐れ、孤立を恐れ、治安を求め、社会保障を求め、社会の内外よりの干渉と攻撃とを恐れる。人間はしばしば脅威に過敏である。しかし、安全への脅威はその気になって捜せば必ず見つかる。完全なセキュリティというものはそもそも存在しないからである。
 「安全保障感」希求は平和維持のほうを選ぶと思われるであろうか。そうとは限らない。まさに「安全の脅威」こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである。まことに「安全の脅威」ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない。自国が生存するための「生存圏」「生命線」を国境外に設定するのは帝国主義国の常套手段であった。明治中期の日本もすでにこれを設定していた。そしてこの生命線なるものを脅かすものに対する非難、それに対抗する軍備の増強となる。1939年のポーランドがナチス・ドイツの脅威になっていたなど信じる者があるとも思えない。しかし、市民は「お前は単純だ」といわれて沈黙してしまう。ドイツの「権益」をおかそうとするポーランドの報復感情が強調される。」





(つづく)

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事