岐阜の沖縄三線「八重山うた大哲会 岐阜支部」

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戦争と平和

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各務原と海兵隊

5月現在、普天間基地問題で沖縄は大きく揺れています。
GW中に首相の訪沖がありましたが、ここしばらくの揺さぶりは何だったのか。
うまいことを言って、一度はあきらめかけた希望を持たせ、
やっぱり無理でした、で県民感情を逆撫でしただけのようでした。

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実は岐阜とアメリカ海兵隊は無縁ではありません。
岐阜には各務原に自衛隊基地があり、
戦前からずっと戦闘機の飛び交う場所でした。
沖縄の米軍基地と各務原の関係が
「岐阜新聞」のコラム「分水嶺」に載っていたので一部流用します。

▼「米海兵隊を岐阜に引き取ってよ」―沖縄県の地元紙記者はこう言った。少しく酔いも手伝って冗談まじりだったが、目は笑ってはいなかった。岐阜県の人は在沖海兵隊の歩みを知っているね、と念を押しているようだった。
▼在沖米海兵隊は1956年2月、各務原市と山梨県から移転してきた史実を知っておかないと、冒頭発言は理解できない。米軍基地は戦後ずっと沖縄にあるが、駐留部隊の多くは日本本土や韓国から集められた。
▼各務原市は戦前から基地の街だ。旧日本陸軍の飛行場が造られ、戦闘機が生産された。戦後、米軍が進駐すると「キャンプ岐阜」と呼ばれ、朝鮮戦争で韓国の米軍部隊を後方支援する海兵隊が配備された。
▼風俗の乱れや米兵絡みの犯罪が絶えず、反基地闘争が繰り広げられた。休戦後、本土の米海兵隊は沖縄へ。朝鮮半島から遠い沖縄に移った理由はいまも謎だが、各務原市民が味わった恐怖はそっくり持ち込まれた。
(以下略)(「分水嶺」2010年3月7日〈岐阜新聞〉より)

以前、沖縄の基地の町・嘉手納の人と飲んでいた時
その人が各務原にいたことがあるという話をしたので、酒のネタに
「沖縄の米軍は各務原が断ったから来たんですよ」とつい口走ってしまいました。
その軽率な一言で、えらく相手を驚かせ怒りをかってしまいました。

内地では基地の問題は、こういうスポットがあたったときだけ報道されますが、
沖縄では基地や米兵に絡む被害の話題を目に耳にしない日はありません。
また沖縄の人が新聞のトップ記事だと思っていることも
本土では三面記事の片隅に載るか載らないかの程度の事もあります。

その温度差が、今回の迷走の根源にあるのでしょう。

岐阜県の塔

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摩文仁の平和祈念公園内には各県の慰霊碑などが多く集まっています。
しかし、全部の県がここにあるかと言えばそうではなく、
先にも述べましたが糸満市米須には
東京都、鳥取県、北海道、奈良県、和歌山県、島根県、広島県、香川県、大分県が。
同市真栄里には山形県。
八重瀬町具志頭には山梨県と高知県。
宜野湾市嘉数には京都府、
といった具合に分散しています。
もし観光で訪れた際に、自分の県の慰霊碑を見たい、
という方があれば事前に場所を調べておく必要があります。
(他の慰霊塔に関しても、県外者には案内がわかりにくいことが多いです)

岐阜県の慰霊塔は平和祈念公園内にあります。
「太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した
岐阜県出身者26,853名を祀る。
うち沖縄戦での戦没者は1,015名」
(「沖縄の慰霊の塔」〈大田昌秀 著/那覇出版社〉より)

沖縄で僕はスケジュールが空けば
地図をたよりに、出来る限り県内の慰霊碑を探して回るということをやっていましたが
それは容易な数ではありませんでした。
沖縄県にある慰霊碑の数は400を越え、いまだに建立され続けているのです。
ガマ(洞窟)には未だ拾われない遺骨も眠り、
平和の礎(いしじ)には毎年新たに銘が刻まれます。
死者の碑が増え続ける沖縄は、島全体がある種ネクロポリスの様相を呈している
そんな気さえしてきます。

終わらない戦後が、癒しの島沖縄の日常です。

(写真は岐阜県の塔と平和の礎)

魂魄の塔

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 沖縄戦が終結した翌1946年1月、米軍の指示によって各収容所から摩文仁村米須(現糸満市字米須)に移動させられた旧真和志村(現在は那覇市と合併)の村民が、金城和信村長の指導のもと、米軍の許可を得て遺骨収集班(収骨隊)を作り、摩文仁の野に風雨にさらされていた幾万の遺骨を集め、納骨所を造り祀ったもの。
 納骨所は米軍提供のセメントや古寝台の鉄骨を使い、周囲から石を積み上げて作ったという。
 その後も集骨作業は進められ、やがて35,000余名を納める沖縄最大の慰霊塔となった。
 遺骨は、一九七五年一月、戦没者中央納骨所へ納骨され、さらに七九年、国立戦没者墓苑に移された。(「沖縄の慰霊の塔」〈大田昌秀 著/那覇出版社〉より)

 戦後沖縄で初めて作られた慰霊塔で沖縄で最大とあります。
(さらにこの金城氏は先の「ひめゆりの塔」や男子学徒を祀った「健児の塔」を建立しています)
 当時まだまだ緊迫するアメリカ側の顔色をうかがいつつ、
敵味方関係なく横たわる夥しい数の、誰のものとも判別できない遺骨を拾い集め、ここに葬ったといいます。
 ここが戦後の沖縄の慰霊塔の原点です。

 ちなみに本書は多くの慰霊塔の情報を網羅するだけでなく、
沖縄戦の経過、慰霊塔建設の内容を客観的に分析しつつ、
かつかなり批判的な意見も含めながら、その意義を論じています
(大田氏は元沖縄県知事です)。

 この魂魄の塔からさらに東へ行くと、各都道府県の慰霊塔と平和の礎が建ち並ぶ
沖縄最大の墓苑、摩文仁の平和祈念公園に着きます。

(続く)

米須の慰霊塔

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内地で、沖縄の戦争に関するスポットというと
「ひめゆりの塔」という連想語がよく出ます。
映画やニュース、各媒体でその名は広く知られています。

遺品や戦争の経緯などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」は
平和学習の場所として、南部の戦跡めぐりのモデルコースになっています。
ここには連日、大型バスが学生やツアー客を運んできて、
バスガイドが語る説明に聞き入り、見学し、献花されていきます。

この米須地区には、資料館から道一つ入った場所にも、慰霊塔が建ち並ぶ場所があります。
しかし、こちらはまず旅行のガイドブックに掲載されていません。
この近辺には都道府県の慰霊塔「だけ」でも、
東京都、鳥取県、北海道、奈良県、和歌山県、島根県、広島県、香川県、大分県、宮崎県
とこれだけの数の慰霊塔があります。

沖縄には「沖縄県」としての慰霊塔はないと言われていますが
あえて言うなら、ここにある「魂魄の塔」があげられるといいます。

(続く)

対馬丸

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前に対馬丸記念館の方とお話をする機会がありました。
そこで聞いた話です。
要約すると次のようなことにでした。

「対馬丸は、多くの犠牲者を出した悲しい出来事以外の何ものでもなく
それは事実として変わらない。
しかし、対馬丸以外にも犠牲になった船は他にもたくさんある。
私たちは尽力の末、運よくこの館を建てることがかなった。
しかし世の中には記念館というものがない被害者の方が圧倒的に多い。
対馬丸という船の被害を展示するだけでは何にもならない。
だからこの館の入り口ではまず、対馬丸を語ることの意味は何かを問い
出るときには現在の自分に問題を重ね合わせられる展示にしているのです。
過去ではなく未来のことを」

(写真は小桜の塔)

(続く)

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