さいたま赤十字病院は病院のすぐ隣りに看護専門学校を併設している。
正面玄関を入ってすぐのホールにはナイチンゲール、アンリデュナンなどとともにエディス・キャベルの写真が額に入れられ飾ってあった。Edith Cavellという名前は初めて知った。
有名な人物なのにインターネットで調べても日本語での解説はほとんどなかった。
カナダのロッキー山脈にある3000m級の山にMt.Edith Cavellと名前がついているという。
Edith Cavelについての解説文を読むとl看護学校にふさわしい人物であることが分かった。
エディス・キャベルについて、さいたま赤十字看護専門学校の解説文は下記のように書かれている。
学校の職員の方々に聞いても写真と解説文は何を参考にされたのかは不明とのことだった。
看護専門学校の生徒たちはEdith Cavellについて関心を持っているのだろうか。
【Edith Cavell】
1872年イギリス・ノーフォク州スウォーズトンに生まれる。
Edith Cavellはロンドンで看護師となり1906年34才の時ベルギーのブリュッセルに渡り看護学校の設立に参加し監督に就任したが、間もなく第一次世界大戦が起こり、この学校は傷病兵を収容することになった。
ドイツ軍はベルギーに侵入して来るようになり兵士はもちろん医師も看護師も重症患者を残したまま撤退を余儀なくされるようになった。しかし「この人たちを置いていくことは出来ない」と言って、一人Edith Cavellだけ居残り、敵味方の区別なく救護活動を続けていた。
そうしているうちに一度はパリ郊外まで殺到したドイツ軍も連合軍の反撃にあい旗色が振るわず、戦線は膠着状態が相当長く続くこととなった。
このような状態となると両軍とも後方錯乱が起こり、神経戦に頭を悩まされるようになり、加えてスパイ活動が盛んになった。ドイツ軍にとってはイギリス軍が退却後も占領地の奥深く、しかも長い期間とどまっている者については、たとえ看護師といえども一応疑うことは止むをを得ないこととなり、スパイ嫌疑で逮捕されることになり、簡単な取り調べの後、本人はスパイなどとんでもないこととして否定したにもかかわらず、そのままブリュッセルに護送されることになった。
やがて形式的な裁判の末、スパイと断定、銃殺の判決を受けて刑場に引き出されることになった。
近づいたドイツ兵が目隠しをしようとすると、それを断って自分を狙っている銃口をじっと見つめ、「スパイなどと」はじめはつぶやくように、そして言葉を改めて「愛国心だけでは足りないのです。たとえ一人でもこの地上に苦しむ人のある限り私には見捨てることは出来ないのです。」と強く、しかも落ち着いた声で言って、従容として死についた。
Edith Cavell銃殺の報は直ちにヨーロッパ中に広まり、人々はこぞって憤激した。ドイツ人でさえ後悔の念に駆られたと言われている。やがてアメリカ合衆国が参戦し、1918年11月ドイツの降伏によってこの戦争も終わりを告げた。Edith Cavellの遺骸は海を渡って英国に帰り盛大な葬儀の後、故郷ノーリッジに手厚く葬られた。
ロンドンのトラファルガースクエアーにある英雄ネルソンの銅像に近く小高い台地に白く清楚な婦人像が頑丈な台石の上に立っている。台石の四面には
Humanity 人道・博愛
Divotion 敬虔
Sacrifice 献身
Fortitude 堅忍
の4語が刻まれ正面の人道の字の下に1915年10月12日ブリュッセルに於いてと最後の日と所に前記終焉の
言葉が刻まれている。
"Patriotism is not enough,I must have no hatred bitterness for anyone.,,
またカナダのロッキー山脈に彼女の死を記念して名付けられた、エディス・キャベル山の美しい山の麓に石碑が建てられている。
(Trafalgar Square)