【正義】と【平和】

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 前述した通り、足利義氏の末子、義継は、当初、三河国碧海郡長瀬に住み、長瀬義継を称したが、後に、吉良東条に移り住み、吉良義継を称した。

 前述した、吉良尊義の子孫、吉良東条氏に対し、前期吉良東条氏とも呼ばれる。

 前期東条吉良氏の家督は、義継の息子、経氏が継承し、更に経氏の息子の経家が、順調に継承している。

 経家の息子、貞家は、足利宗家の尊氏に従って、鎌倉幕府を滅ぼすと、建武の新政期には、足利直義に従い、関東に下向した。

 南北朝の動乱が始まると、貞家は、弟の貞経と共に、箱根・竹ノ下の戦いに参加した後、足利尊氏の本軍とは分かれ、尾張国・三河国を転戦した。

 その後、貞経は、三河国の東条吉良荘に残り、貞家は、三河国矢作で軍を再編して、関東へ向かい、各地を転戦した。

 一方、一時、京を追われていた、足利尊氏が、九州で勢力を盛り返し、京を奪回すると、貞家は、上洛して、尊氏に合流し、因幡国・但馬国の守護に任じられた。

 そして、1345年、畠山国氏と共に、奥州管領に任じられると、奥州に下向し、南朝の北畠軍と戦った。

 足利尊氏と直義の対立、観応の擾乱では、西条吉良氏の満義・満貞の父子と共に直義に味方するが、貞家の弟の貞経のみが、尊氏に味方した。

 貞家は、尊氏派の畠山高国・国氏を滅ぼした後は、尊氏派に寝返っている。

 奥州管領として、共に補任された、畠山国氏の存在を疎ましく思い、国氏を滅ぼすために、当初、直義に味方したのかもしれない。

 1352年、前期東条吉良氏は、貞家・満家の父子、弟の貞経など、一族が奥州に結集した。

 この時点で、前期東条吉良氏は、三河国吉良荘東条の地を捨て、奥州を本拠地にすることにしたと思われる。奥州吉良氏の誕生である。

 1353年、奥州吉良一族は、南朝方の拠点、宇津峰城を陥落させて、奥州の南朝勢力は、崩壊した。

 この後、貞家の名は、史料に見えなくなるため、死去したと考えられる。

 貞家の嫡男、満家が、奥州管領職を継承する。

 しかし、貞家に滅ぼされた、畠山国氏の維持、国詮と、勢力の衰えた、元直義派の奥州総大将の石塔義房の息子、義憲が、勢力を糾合し、満家の多賀城を攻撃する。

 一時は、満家は、多賀城を奪われたが、翌月には奪回している。

 その後、尊氏は、斯波家兼を奥州管領に任じ、奥州に下向させたため、奥州は、吉良氏・斯波氏・畠山氏・石塔氏の四管領並立状態になる。

 満家の死後、持家が、幼少のために、満家の死後、貞経と、満家の弟の治家、叔父と甥が、対立を始める。

 貞経が、京の幕府を後ろ盾にしていたのに対して、治家は、鎌倉府を後ろ盾にしていた。

 1367年、二代将軍足利義詮は、吉良治家討伐の御教書を発給している。

 治家は、既に、幕府にとって、謀反人になっていたのである。

 この頃から、貞経と持家の名が、史料には、見えなくなり、吉良氏は奥州から消えることになる。

 一方、治家は、初代鎌倉公方の足利基氏に招かれ、上野国飽間郷に移住し、その子孫は、「鎌倉公方の御一家」という、別格の扱いを受けた。

 戦国時代、北条氏の傘下に入るが、北条氏滅亡後、徳川家康に高家として取り立てられた。

 当初、蒔田氏に改称していたが、赤穂事件後、三河吉良氏が断絶すると、吉良氏に復している。


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