【正義】と【平和】

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 今川範国には、四人の息子がいた。範氏・貞世・氏兼・仲秋である。

 先述の通り、長男の範氏は、駿河国の守護を継承したが、その時、父の範国は、存命中であった。

 範氏は、1365年、父の範国より先に死去し、範氏の長男の氏家も、間もなく死去する。

 当初、氏家は、今川宗家の家督を、従兄弟である、貞世の嫡男の貞臣に譲るとことを、その死の直前に求めていたが、貞世が、貞臣の宗家の家督継承を拒絶したと言われている。

 そのため、僧籍に入っていた、氏家の弟の泰範が、還俗して、今川宗家の惣領となった。
 
 次男の貞世は、法名を了俊。

 史上、今川了俊として名高い、不世出の英雄である。

 以下、貞世のことを、了俊と記述することにする。

 了俊は、観応の擾乱では、父と共に尊氏派に属して、1355年には、細川清氏と共に、東寺の敵を打ち破るなどの功績を挙げている。
 
 その後、遠江国の所領に戻ったが、1361年に、室町幕府の執事であった、細川清氏が、失脚して、南朝に降ると、父の範国の命により、清氏に講和を呼びかけるために上洛した。

 東寺合戦において、清氏と了俊の間に、信頼関係があったためと考えられる。
 
 その後、了俊は、遠江国・山城国の守護、幕府の侍所頭認・引付頭人等の要職を務めた。

 1367年、二代将軍の足利義詮が死去すると、出家し、この時に、了俊を法名としている。

 1370年、幕府の管領、細川頼之から、九州探題に推薦され、正式に任命された。
 
 足利尊氏は、後醍醐天皇に叛旗を翻した後、一時、京を追われ、九州に落ち延びている。

 その時、少弐頼尚と宗像氏範の支援を得ると、筑前国の多々良浜の戦いにおいて、後醍醐天皇方の菊池武敏を破り、勢力を立て直した。

 そして、再度、京へと進軍し、楠木正成との湊川の戦いで勝利を治め、京を奪還したのである。
 
 その後、後醍醐天皇は、自身の皇子である、幼少の懐良親王を九州に征西将軍として、送り込む。

 菊池武光が、これを迎え入れ、足利尊氏が九州に残した、一色範氏・仁木義長と攻防を繰り返した。

 更に観応の擾乱が発生すると、尊氏の庶子で、直義の養子の直冬が、九州に入り、少弐頼尚の支援を受けたため、九州は、三勢力の乱立状態になった。
 
 1352年、直義が死去すると、直冬は九州を去る。少弐頼尚は、南朝の菊池武光と結び、針摺原の戦いで、一色軍に大勝し、一色範氏を九州から駆逐した。

 少弐頼尚が、足利直冬を支援し、その後、南朝と結んだのは、京の幕府が送り込んだ、一色範氏と仁木義長が、九州北部の自分の勢力を脅かすことを恐れたためであった。

 そのため、一色範氏が、九州を去ると、少弐頼尚は、再び、北朝に帰属する。
 
 しかし、懐良親王の率いる、南朝方は、1359年、筑後川の戦いで、頼尚を破ると、更に、1361年には、遂に九州の拠点である、大宰府を占領する。

 その後、室町幕府は、斯波氏経、渋川義行を九州探題に任命するが、義行に至っては、九州に入ることさえ、できなかった。
 
 南朝の圧倒的優位な状況の中、九州探題に任命された、今川了俊は、弟の氏兼と仲秋、息子の貞臣・貞兼・満範を連れて、九州へ下向する。

 その途上、安芸国に留まり、国人の毛利元春・吉川経見・熊谷直明などを招集した。

 そして、周防国・長門国・石見国の守護、大内弘世・義弘の父子の協力を得ると、九州へと渡った。



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