【正義】と【平和】

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 1516年(永正十三年)、引馬城の大河内定綱が、今川氏親に叛いて、斯波義達に寝返った。

 氏親は、出陣して、引馬城を包囲すると、翌年、安倍金山の鉱夫を用いて、坑道を掘ると、水の手を絶って、引馬城を降伏させた。

 大河内貞綱は、討ち死にし、義達は、出家して、降伏したため、尾張国へと送り返された。

 斯波義達は、尾張国へ戻った後、事実上の引退に追い込まれる。

 今川氏親は、この勝利によって、遠江国を完全に平定し、領国化した。

 1518年(永正十五年)以降には、遠江国の検地を実施すると共に、駿河国の安倍金山の開発を行っている。
 
 甲斐国の武田氏との抗争は続き、1515年(永正十三年)には、甲斐国西部の国人領主、大井信達に味方して、甲斐国守護の武田信虎と争い、中道往還沿いの勝山城を一時的に、占拠した。

 その二年後、氏親は、信虎と和議を結ぶと撤兵し、信達は、信虎に降伏した。
 
 氏親は、1505年(永正二年)頃、京の公家、藤原北家勧修寺流の中御門家当主、宣胤の娘を正室に迎えている。後世、駿河国の女大名と呼ばれた、寿桂尼である。

 公家出身者を正室としたため、京との関係が強まり、京の文化が、駿府に導入された。
 
 ただし、今川了俊は、和歌・連歌を好み、更に学者として、『難太平記』を著述している。

 また、氏親の曽祖父の範政も、和歌や書に秀で、『源氏物語提要』を著述している。

 氏親は、和歌と連歌を好んだが、今川氏の血が、そうさせたのかもしれない。
 
 氏親は、1526年(大永六年)、戦国時代の代表的な分国法、『今川仮名目録』を制定した。

 検地の実施と分国法の制定により、今川氏は、守護大名から、戦国大名へと変貌を遂げた。

 その二カ月後、氏親は、駿河館で死去した。正確な享年は不明だが、五十代と思われる。
 
 今川宗家の家督を継承したのは、氏親と寿桂尼の間に生まれた、嫡男の氏輝であった。

 氏輝は、未だ、十三歳であったため、寿桂尼が、後見人として、氏輝を補佐した。

 氏輝は、1532年(天文元年)、二十歳頃から、親政を始める。
 
 氏輝は、朝廷に献上物を送るなど、京の中央政界との関係強化に努めた。

 この頃、既に、伊勢盛時は死去し、その息子の氏綱は、「北条」を称している。

 今川氏と北条氏の関係は、良好な状態が維持され、1535年(天文四年)、氏輝は、氏綱と共に、甲斐国の守護である、武田信虎と争い、甲斐国都留郡において、信虎の軍勢と合戦に及んでいる。
 
 しかし、氏輝は、その翌年の1536年(天文五年)、突然、死去した。享年、二十四歳。

 同日に、次弟の彦五郎も死去している。

 彦五郎は、謎の人物で、その存在は、今川氏以外の人物が著した、史料に登場するのみで、今川氏の史料には、その名は存在しない。
 
 氏輝には、子供がいなかったため、寿桂尼は、氏親の五男で、出家していた、栴岳承芳を今川宗家の家督相続者にしようとした。

 寿桂尼は、氏親の長男の氏輝と先述の彦五郎、そして、栴岳承芳の母であり、自身の実子は、栴岳承芳しか、残っていなかったのである。
 
 氏親には、六人の息子がいたが、三男の玄広恵探の母は、今川氏の有力家臣、福島助春の娘で、側室であった。四男の象耳泉奘と、六男の氏豊の母は不明である。

 玄広恵探は、自身の家督継承を主張し、今川家には、家督継承争いが勃発した。

 花倉の乱である。



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