【正義】と【平和】

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 1553年(天文二十二年)、今川義元は、父の氏親の定めた、「今川仮名目録」に追加法を加えた。

 その内容は、室町幕府の定めた、守護使不入地の廃止を宣言したものであった。

 今川氏は、既に、幕府の権威により、領国を統治する守護大名ではなく、自家の実力で、領国を統治する、戦国大名であることを、明確に宣言したのである。

 1554年(天文二十三年)、今川義元は、太原雪斎の尽力により、甲斐国の武田晴信、関東の北条氏康と甲相駿三国同盟を締結する。

 義元の娘が、武田晴信の嫡男、義信の正室に、晴信の娘が、北条氏康の嫡男、氏政の正室に、氏康の娘が、義元の嫡男である、今川氏真の正室に入る、三国間の婚姻同盟であった。

 甲相駿三国同盟の締結の際に、今川義元、武田晴信、北条氏康の三者が、駿河国富士郡の善徳寺に集まり、対面したとの説もある。

 義元は、同盟の締結によって、北と東の脅威を完全に取り除き、西、即ち、尾張国への侵出に専念できることになった。

 同時に、武田晴信は、越後国の長尾景虎との戦いへ、北条氏康は、関東制覇に専念することになる。

 その翌年、義元は、武田晴信と長尾景虎、後の上杉謙信の第二次川中島の戦いにおいて、両者を仲介し、和睦させている。

 同年、義元が、全幅の信頼を置く、今川氏の最高顧問の太原雪斎が死去し、更に、その二年後には、朝比奈泰能も死去した。

 1558年(永禄元年)、義元は、元服を済ませた、人質の竹千代、松平元康に、織田信長に通じた、三河国寺部城主、鈴木重辰を攻めさせた。後の徳川家康の初陣である。

 元康は、見事に義元の期待に応えた。この戦いの戦功により、義元は、元康に、松平氏の旧領の内、山中三百貫文の地を返付すると共に、腰刀を贈っている。

 同年、今川義元は、四十歳の年に、嫡男の氏真に、今川宗家の家督を譲っている。

 以後、駿河国・遠江国に発給される、文書の署名は、二十一歳の氏真の名に変わることになる。

 しかし、義元は、出家したわけではなく、領国の統治を氏真に任せ、自身は、新たな所領、三河国の領国化と、尾張国への侵出に専念したのである。

 一方、織田信秀の嫡男、織田信長は、今川氏の傘下の村木砦を落とし、笠寺城を奪還。鳴海城の周辺には、丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周辺には、丸根砦・鷲津砦を築くことで、両城を圧迫し、鳴海城と大高城の相互の連絡を遮断した。

 信長は、同母弟の信行を殺害し、家督相続争いに終止符を打つと、浮野の戦いで、織田宗家の織田信賢を破って、1559年(永禄二年)には、尾張国を統一した。

 翌年、義元は、駿河国・遠江国・三河国の総勢二万余りの軍勢を率いて、尾張国への侵攻を開始する。

 1560年(永禄三年)5月17日、義元は、沓掛城に入った。

 義元は、翌日、18日の夜、松平元康の三河勢を先行させると、大高城に兵糧を届けさせた。

 松平元康と朝比奈泰朝は、19日の未明に、織田方の丸根砦と鷲津砦の攻撃を開始する。

 今川軍は、大高城の周辺を制圧すると、義元の率いる、本隊が、沓掛城を出発。大高城方面に進軍した。

 同日13時頃、激しい、豪雨が降った。一説には、雹であったと言われる。

 桶狭間にて、休息中の義元の本隊を、信長の2,000の兵が襲撃した。

 二万の今川軍の内、義元の本隊は、5〜6,000に過ぎなかったのである。



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