【正義】と【平和】

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 今川義元は、信長の奇襲に、輿を捨て、300騎の親衛隊に周りを囲まれながら、騎馬で、退却しようとする。

 しかし、度重なる攻撃によって、周囲の兵を失い、遂に、信長の馬廻に追いつかれる。

 義元は服部一忠を返り討ちにしたが、信長軍の毛利良勝に討ち取られた。

 「海道一の弓取り」と謳われた、今川義元は、こうして、死去した。享年四十二歳。

 今川義元は、後世、織田信長の偉大さを讃えるための「噛ませ犬」の様に扱われている。

 しかし、義元は、駿河国・遠江国に加え、三河国を傘下に治め、尾張国に侵攻したために、「海道一の弓取り」とも称される。

 また、武田信玄・北条氏康の英雄とも互角に渡り合い、領国経営に優れた手腕を発揮した、名君であったとの評価もなされている。

 しかし、義元の死は、日本史上、十指に入る、名軍師の一人、太原雪斎の死のわずか、五年後である。

 歴史にifはないが、太原雪斎が生きていれば、桶狭間の敗戦は、確実に、なかったであろう。

 義元は、太原雪斎、朝比奈泰能などの有能な家臣を使いこなした点は、名君と言えるが、義元自身の能力については、判断が難しい。

 総大将の義元の死によって、今川軍は、戦意を喪失し、織田信長の猛攻によって、多数の死者を出した。

 義元の重臣である、岡部元信は、今川軍の崩壊後も、鳴海城で奮戦した。

 元信は、鳴海城を信長に明け渡すのと引き換えに、信長の家臣の毛利良勝に奪われたままの義元の首級を取り戻した。義元は、首だけの姿で、駿府に帰還したのである。

 義元の死によって、三河国・遠江国の混迷が始まる。

 今川氏は、桶狭間の戦いにおいて、松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将を失った。

 松平元康は、混乱に乗じ、松平氏の城、岡崎城へ入ると、今川氏から自立する。

 岡崎城は、今川氏の城代、山田景隆が、城を捨てて逃げ、城主不在となっていたのである。

 義元の嫡男、氏真は、既に、今川宗家の家督を継承していたため、義元の死突然の死が、家督争いを招くことはなかったが、二十二歳の氏真は、適切な対応を取る能力がなかった。

 氏真は、父の仇を討とうとすることはなく、まずは、三河国の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給することで、動揺を防ぐことを試みている。

 氏真は、東三河の国人達に対し、新たな人質を要求したため、国人達は不満を抱いて、戸田氏、西郷氏など、今川氏から離反し、元康の傘下に入る者と、今川方に残る者の間で、抗争が広がった。

 三州錯乱である。

 1561年(永禄四年)には、京の十三代将軍、足利義輝、北条氏康が、氏真と元康の和解を仲介するが、元康は、織田信長と手を結ぶ道を選んだ。

 同年、氏真の命を受けた、三河国吉田城の小原鎮実は、今川氏から離反した、東三河の国人達の人質を処刑する。この処置によって、東三河の国人達の離反は決定的となった。

 翌年、元康は、尾張国の織田信長と清洲同盟を結ぶ。

 同年、氏真は、自ら、軍勢を率いて、三河国の牛久保城に出兵し、一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。

 1564年(永禄七年)に、東三河の今川氏の唯一の拠点であった、吉田城を、松平元康が開城させると、今川氏の勢力は、三河国から完全に駆逐されたのである。



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