【正義】と【平和】

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 三河国の動揺は、隣国の遠江国にも伝播し、今川氏の支配に不満を持つ、国人達の離反を招いた。

 井伊谷の井伊直親、曳馬城主・飯尾連竜、見付の堀越氏延、犬居の天野景泰等の離反の動きが広がった。

 遠州錯乱である。

 1562年(永禄五年)、氏真は、井伊氏の当主、井伊直親を重臣の朝比奈泰朝に誅殺させる。

 直親の嫡男、虎松は、数え年で二歳に過ぎず、桶狭間の戦いで死んだ、井伊直盛の娘が、井伊直虎を称し、井伊氏の当主の座に就いた。

 2017年の大河ドラマ、「おんな城主直虎」の主人公である。

 そして、虎松こそが、後の徳川四天王の一人、井伊直政である。

 1564年(永禄七年)には、飯尾連竜が、徳川家康と改名した、元康と内通して、反旗を翻した。

 氏真は、重臣の三浦正俊に命じて曳馬城を攻撃させるが、逆に正俊が戦死する。

 その後、連竜は、和議に応じて、氏真に投降するが、翌年、氏真は、連竜を誅殺する。

 氏真は、飯尾氏の家臣が籠城する、曳馬城に再攻撃を行い、翌年には開城した。

 しかし、疑わしい、井伊直親、投降した、連竜を誅殺するなどの行為によって、国人達は、氏真を信用できなくなり、今川氏は、衰亡の一途を辿ることになる。

 出家に伴い、信玄と称した、甲斐国の武田晴信は、1565年(永禄八年)、嫡男の義信を、廃嫡した。

 義信の正室は、氏真の姉妹、嶺松院であり、その二年後、嶺松院は、駿河国に返された。

 両国の婚姻関係は、解消されたのである。

 信玄は、新たな嫡子、勝頼の正室に、織田信長の養女、龍勝院を迎える。

 信玄は、最早、衰退した、今川氏を見切り、徳川家康と同盟を結んだ。

 氏真は、信玄の心変わりに、北条氏康と共に、塩止めを行う。

 越後国の上杉謙信は、内陸に位置する、甲斐国の武田信玄に、塩を送った。

 「敵に塩を送る」の故事は、ここに由来する。

 1568年(永禄十一年)、武田信玄は、甲駿同盟を破棄して、駿河国への侵攻を開始した。

 氏真は、薩埵峠で、武田軍を迎撃するため、興津の清見寺に出陣したが、瀬名信輝・葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡等、駿河国の有力国人の実に二十一人が、信玄に通じたため、今川軍は潰走し、武田軍は、今川氏の本拠地、駿府を占領した。

 氏真は、今川氏の重臣、朝比奈泰朝の居城である、遠江国の掛川城へ逃れた。

 この時、氏真の正室で、北条氏康の娘の早川殿は、切迫した状況のために、輿の用意をできず、徒歩で逃げたと言われる。

 しかし、遠江国には、信玄と今川領の分割の約定を交わしていた、徳川家康が侵攻し、その大半が制圧された。徳川軍は、掛川城を包囲したが、城主の朝比奈泰朝を筆頭とする、今川氏の家臣達の抵抗によって、半年近くの籠城戦となった。

 北条氏康は、娘の早川殿が、徒歩で逃げるという、屈辱的な状況になったことに激怒し、武田信玄との同盟関係を解消。信玄の娘で、氏康の嫡子、氏政の正室の黄梅院を甲斐国に送り返した。

 氏康は、氏政に軍勢を与え、今川氏真の救援に向かわせる。

 武田軍と北条軍は、合戦に及ぶが、勝敗が付かず、信玄は、駿府周辺を占領したものの、駿河国全土を制圧できず、駿河国庵原郡の江尻城に穴山信君を残し、甲府に帰還せざるを得なかった。

 信玄は、家康との約定を破り、遠江国への圧迫を強めたため、家康は、氏真と和睦し、家臣の助命と引き換えに、氏真は、掛川城を開城した。



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