【正義】と【平和】

英雄千人をランキング。『千人の英雄伝』連載中。

全体表示

[ リスト ]

 近藤勇は、元々は、武士の生まれではない。

 武蔵国多摩郡上石原村の百姓、宮川久次郎の三男として、1834年(天保五年)に生まれた。

 幼名は、勝五郎。長兄の名は、音五郎。次兄は、粂次郎。

 武蔵国多摩郡は、将軍の御膝元であり、無論、天領である。そのため、多摩郡の百姓達は、将軍の百姓としての誇りを持っていた。

 1849年(嘉永元年)、十六歳の年に、勝五郎は、兄の音五郎、粂次郎と共に、江戸牛込の天然理心流剣術道場、試衛館に入門する。翌年、勝五郎は、天然理心流の目録を受けると、同年中に、天然理心流の宗主、近藤周助の養子に迎えられた。

 天然理心流の創始者は、遠江国の出身と言われる、近藤内蔵之助である。彼の生年及び、創始の年代は不明であるが、内蔵之助は、寛政年間に、江戸へ赴き、両国薬研堀に道場を開いた。

 江戸では、下級の幕臣とその家来に伝授すると同時に、武蔵国多摩郡、相模国に出向いて、門弟を広めた。

 内蔵之助は、1807年(文化四年)に死去している。

 天然理心流の二代目宗主となったのは、近藤三助である。

 三助は、武蔵国多摩郡戸吹村の名主、坂本戸右衛門の長男で、近藤内蔵之助の養子となった。

 剣の使い手として知られ、内蔵之助は、三助との手合わせで、天然理心流を編み出したとの説もある。

 近藤三助は、1819年(文政二年)に死去するが、三代目宗主は、決まっていなかった。三助には、多くの門弟がいたが、武蔵国多摩郡小山村の名主、嶋崎休右衛門の五男である、嶋崎周助が、1830年(天保元年)、近藤姓を称し、三代目宗主となった。

 既に、三助の死後、十一年が経過しており、周助の三代目宗主就任の経緯は、不明である。

 近藤周助は、1839年(天保十年)、江戸市谷甲良屋敷に道場を移転し、剣術道場である、試衛館を開いた。

 なお、天然理心流は、剣術・柔術・棒術の三術の免許があり、周助は、剣術のみ、免許を受けていた。そのため、新たに剣術道場を開いたのである。

 宮川勝五郎は、周助の養子になった時、最初は、周助の実家の嶋崎の姓を与えられて、嶋崎勝太を称した。

 後に、正式に近藤家と養子縁組をして、近藤勇が誕生したのである。

 天然理心流の宗主は、二代目の三助以降、代々、多摩の百姓が、継承したことになる。

 1853年(嘉永六年)、黒船が来航し、日本は、幕末へと突入する。

 2004年の大河ドラマ、『新選組!』では、近藤は、佐久間象山、土方歳三、坂本龍馬、桂小五郎と共に、黒船を見に行っているが、無論、史実ではない。

 この頃の近藤は、試衛館において、剣術の修業に明け暮れていると思われ、黒船来航に何を思ったかは、不明である。

 多摩郡の各村の名主の中には、天然理心流に入門し、自宅に道場を開設していた者達が存在した。

 小野路村の小島鹿之助、日野本郷の佐藤彦五郎などである。

 1855年(安政二年)、近藤は、小島鹿之助、佐藤彦五郎と義兄弟の契りを交わす。

 『三国志演技』の影響であるが、黒船来航後、国を憂うる気持ちがあったと推測される。

 近藤は、多摩郡の各村の道場に、出稽古に赴いていた。

 この頃、既に、後の土方歳三、沖田総司が、近藤と共に出稽古を行っている。

 近藤と土方、沖田の出会いは、正確には、不明であるが、彦五郎は、土方の姉、とくの夫であった。




[https://history.blogmura.com/his_bakumatsu/ranking.html にほんブログ村 幕末・明治維新]

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


みんなの更新記事