【正義】と【平和】

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 1860年(万延元年)、近藤は、徳川御三卿の清水家の家臣、松井八十五郎の娘、つねを妻に迎えている。

 多摩の百姓の生まれが、武家の娘と結婚したのである。

 同年、近藤勇は、天然理心流の四代目宗主の座を継いだ。義父の近藤周助は隠居し、周斎を号した。

 この頃、既に試衛館には、後に新選組の中核となる、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、藤堂平助、原田左之助が集っていた。

 新選組と言えば、天然理心流と思ってしまうが、実際に天然理心流の剣術を主とするのは、近藤勇の他は、土方、沖田、井上の三人のみである。

 山南、永倉、藤堂、原田は、他流派で学んだ、食客であった。

 土方は、近藤と同じく、武蔵国多摩郡の出身で、石田村の百姓、土方隼人の十男である。

 先述した通り、土方の姉、とくは、近藤と義兄弟の契りを交わした、彦五郎の妻であった。

 物語では、近藤と土方は、幼馴染とされることが多い。

 実際には、彦五郎の邸宅の道場に、出稽古に来ていた、近藤と知り合い、1859年(安政六年)、天然理心流に入門した。

 沖田総司は、陸奥国白河藩藩士、沖田勝次郎の次男で、江戸の白河藩屋敷で生まれた。

 幼名は、宗次郎。総司には、二人の姉がいたが、その一人のみつが、武蔵国多摩郡八王子の郷士である、井上林太郎を婿に迎え、沖田家の家督を継いでいる。

 総司の生年は、1842年(天保十三年)と、1844年(天保十五年)の二つの説があるが、父の勝次郎は、1845年(弘化二年)に死去しているため、何れにせよ、総司は、幼少期に、父を失っている。

 恐らく、勝次郎は、総司が生まれた頃には、既に病床の身であったため、実子の総司がいるにも関わらず、林太郎を、養子に迎えたのであろう。

 林太郎は、近藤周助の弟子となり、天然理心流を学んで、免許を得ている。

 林太郎は、後に清河八郎の浪士組に参加し、近藤、総司と共に、上洛するが、浪士組が、分裂した際、近藤と総司は、京へ残るが、林太郎は、江戸へ戻った。

 清河の暗殺後、江戸の浪士組は、新微組となり、林太郎は江戸を、新選組の近藤、総司は、京の治安を守ることになる。

 沖田総司は、九歳の頃に、既に、近藤周助の門弟となり、天然理心流を学んだ。

 沖田は、歴史上、美貌の天才剣士として、絶大な人気を誇る。

 実際、十代の前半には、既に試衛館の塾頭を務めている。

 また、二十歳前後の若さで、新選組の一番隊の組長を務めており、剣客集団である、新選組において、斎藤一と共に、一、二を争う、剣術使いであった。

 井上源三郎は、多摩郡日野宿の出身で、佐藤彦五郎の屋敷の道場で、出稽古の近藤周助に天然理心流を学んだ。近藤勇の唯一の兄弟子である。

 天才剣士とは程遠く、免許皆伝に十年かかった。新選組の最年長者で、近藤勇の五歳年上である。

 幕末の江戸では、北辰一刀流の玄武館、神道無念流の練兵館、鏡新明智流の士学館が、三大道場と呼ばれ、隆盛を極めた。

 山南敬助、藤堂平助は、北辰一刀流を、永倉新八は、神道無念流を学んでいる。

 原田左之助は、種田宝蔵院流の槍術使いで、剣術家ではない。

 近藤勇は、人徳に優れ、人格者として、人を魅了したと言われる。

 山南、藤堂、永倉、原田は、近藤の人徳に魅了され、他流派の門弟でありながら、試衛館の食客になっていた。

 近藤は、江戸の時代から、組織の頂点に相応しい、器量を現わしていたのである。




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