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【近藤勇】04.試衛館

 近藤が、山南、藤堂、永倉、原田を試衛館の食客としていたのには、別の事情もあった。

 天然理心流は、実戦型の剣術で、後に京において、その実力を遺憾なく発揮しているが、竹刀を使用した、他流試合には弱かった。

 そのため、道場破りの相手として、竹刀稽古の北辰一刀流、神道無念流を学んだ、山南、藤堂、永倉を食客にしていたのである。

 山南敬助の前半生は、不明な点が多く、仙台藩を脱藩し、江戸に出ると、小野派一刀流の免許皆伝を得た。

 その後、北辰一刀流の千葉周作の門弟となった。

 当時、北辰一刀流は、数千人の門弟を抱えると同時に、政治的論議が、活発に行われていた。

 なお、坂本龍馬は、千葉周作の弟、定吉の門弟で、北辰一刀流の桶町千葉道場の塾頭であった。

 後述する、清河八郎も、北辰一刀流の門弟であり、浪士組の結成を近藤に伝えたのは、山南であったと言われる。

 山南は、試衛館に他流試合を挑み、近藤に敗れ、近藤の剣術、人徳に感服して、彼を慕い、試衛館の食客になったと言われる。

 藤堂平助の出自は、様々な説があるが、五千石の旗本、藤堂家の生まれと言われている。

 平助は、北辰一刀流の開祖、千葉周作の道場である、玄武館の門弟となり、十代半ばで、目録を得た。

 その後、後に京において、新選組に合流する、北辰一刀流の伊東甲子太郎の道場にも出入りしている。

 そして、更に、試衛館の近藤勇の門弟になったのである。

 藤堂平助は、1844年(天保十五年)の生まれで、新選組の幹部の最年少者の一人である。

 斉藤一は、平助と同年齢で、先述した様に、沖田総司の生年には、二つの説があるため、1844年生まれの場合には、沖田、斎藤、藤堂の三人が、最年少者となる。

 永倉新八は、松前藩の江戸定府取次役の長倉勘次の次男である。

 1839年(天保十年)の生まれであるため、近藤の五歳年下になる。

 八歳で、新道無念流の撃剣館に入門すると、十八歳で、本目録を得ている。

 その後、脱藩して、他の道場で学んだ後、剣術修業の旅に出ている。

 脱藩の理由は、剣術好きのためとの説があるが、詳細は不明である。

 江戸に戻った後、坪内主馬の師範代となり、その後、試衛館の食客になった。

 脱藩の際、長倉は、永倉に姓を改めている。

 永倉は、明治維新後も生き残り、明治時代に、小樽新聞の記者、吉島力の取材に応じて、『新選組顛末記』という、記録を残した。

 新選組は、幕末の京において、明治新政府の高官達の仲間を、多数斬ったため、維新後、明治新政府は、「新選組は悪の人斬り集団、悪の使者」と喧伝したが、『新選組顛末記』によって、その固定観念は崩れ、新選組の真の姿が、世に知られるようになったのである。

 永倉新八は、後に新選組の二番隊隊長を務めるが、剣術の腕は、沖田総司、斎藤一に、勝るとも劣らないと言われた。

 剣豪集団である、新選組の中で、誰が、最強であったかは、議論の的になるが、永倉、沖田、斎藤の三者の何れかであったことは、間違いないようで、局長の近藤、副局長の土方は、「剣術」においては、彼等の後塵を拝した。

 原田左之助は、1840年(天保十一年)、伊予松山藩に生まれた。

 父の名は不明で、当初、藩の武家奉公人であったが、出奔し、種田宝蔵院流槍術の免許皆伝を得た。

 原田の近藤との出会いは不明であるが、浪士組結成時には、既に、試衛館の食客になっている。



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