【正義】と【平和】

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 1863年(文久三年)2月8日、浪士組は、伝通院に集結した後、江戸を出立し、中山道を上洛する。

 近藤達は、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いの後、京を離れている。

 新選組は、京において、獅子奮迅の活躍を見せ、数多の逸話を残し、多くの物語が描かれているが、近藤達の京での活動は、実際には、わずか、四年に過ぎなかったのである。

 先述の鵜殿、中条、窪田、山岡の幕臣の他、清河八郎の一派である、石坂宗順、松岡万、池田徳太郎が、浪士組の取締役に就任していた。

 近藤達は、芹沢鴨の隊に編成されたが、近藤は、池田の手伝役として、道中の宿割りを命じられ、本隊に先行して、出立した。

 翌日の9日、武蔵国児玉郡の本庄宿において、近藤が、芹沢鴨の宿を取り忘れてしまい、芹沢は、激怒して、路上で大篝火を焚くという、騒動を起こした。

 近藤は、池田徳太郎と共に芹沢に謝罪し、事態を鎮静化させたと言われている。

 2月23日、半月の道程を経て、浪士組は、京の壬生村に到着した。
 
 浪士組は、各隊別に壬生村会所、新徳寺などの寺、郷士宅へ分宿する。

 鵜殿、清河などの取締役は、新徳寺を、近藤達は、郷士の八木源之丞の邸宅、八木家を宿とした。

 清河八郎は、京に到着した夜、浪士達を新徳寺に集め、浪士組上洛の真の目的は、朝廷に尊皇攘夷の志を建白することにあると宣言し、浪士組の江戸帰還を提案する。

 そして、翌日の24日、浪士組全員の署名が記された、建白書を朝廷の学習院国事参政掛に提出する。

 実は、清河は、浪士組の献策当初から、将軍警護の名目の許に、浪士達を大挙上洛させ、その後、浪士組を幕府から切り離し、朝廷の指揮下に入って、尊皇攘夷の先兵にしようと目論んでいたのである。

 朝廷は、清河の建白書を受理した。

 清河八郎の提案に対して、根岸友山、芹沢鴨、近藤勇は、猛烈に反対した。

 その結果、浪士組は、江戸帰還派と京都残留派に分裂する。

 上洛した、浪士組の二百三十四名の内、京都残留派は、二十四名であった。

 鵜殿は、清河一派の殿内義雄、家里次郎に、残留派の取り纏めを依頼した。

 近藤達は、清河達と袂を分かったのである。

 近藤が、清河の提案に反対した理由は、浪士組の参加時と同じく、推測するしかない。

 近藤は、清河と同じく、尊皇攘夷派であったと言われるが、当時の日本では、限られた、一部の開国派を除けば、日本中の大多数が、尊皇攘夷派であったと言える。

 尊皇攘夷派は、この時点では、必ずしも、討幕派を意味してはいない。

 「将軍の百姓」の生まれである近藤は、攘夷の実行は、将軍が行うべきであると考え、心の底から、将軍を警護するため、京に残留することを決めたのかもしれないが、推測の域を超えない。

 清河八郎の行動に対し、幕府は、浪士組に帰還命令を出した。

 3月13日、江戸帰還派は、清河に率いられ、京を出立し、江戸へ向かった。

 その一カ月後の4月14日、江戸へ戻った、清河は、幕府の刺客である、旗本の佐々木只三郎など、六名によって、暗殺される。

 清河の死後、幕府は、江戸に帰還した、浪士組を「新微組」として、新たに組織した。

 新微組は、庄内藩預かりとなって、江戸の治安維持に尽力することになる。

 新微組には、沖田林太郎、そして、幕末の女剣士、中澤琴が、隊士として、所属している。




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