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【近藤勇】08.新選組

 壬生浪士組は、この時期、隊士の募集を行っている。

 芹沢派と近藤派の十名で始まった、壬生浪士組は、5月25日には、総員三十五名、6月6日には、総員五十二名になっている。

 壬生浪士組には、その名の通りに、「浪士」、収入のない者が、集まったと想定される。

 壬生浪士組は、「会津藩預かり」であるが、諸費用を保証するのは、幕府の役割であった。

 しかし、政局の混乱の中で、幕府と会津藩は、壬生浪士組のための「浪士金」の支払いを、失念していた。

 結成の翌月の4月には、芹沢、新見、近藤の三人の局長が、大坂に下り、両替商である、今橋の平野屋五兵衛に、百両を提供させている。

 会津藩は、それを知ると、後日、浪士金支給の失念を詫び、百両を与えて、平野屋に返済させている。

 斎藤一の入隊は、諸説あるが、江戸ではなく、京であることは確かで、壬生浪士組結成直後と考えられる。

 斉藤は、江戸において、旗本を殺害した、経歴があるために、人目を憚って、浪士組とは別に、上洛した後、合流したと考えられる。

 その他、後に新選組の中核の一人となる、島田魁が入隊する。

 島田は、美濃国の庄屋の次男に生まれ、その後、他家の養子になるが、剣術修業に目覚めると、名古屋城内の御前試合で優勝し、大垣藩の嶋田才の養子になった。

 その後、江戸に出て、坪内主馬の道場で修業した。

 永倉とは、坪内主馬の同門で、彼の誘いで、入隊したと言われる。

 壬生浪士組は、隊士の総員に伴い、隊の組織を編制した。

 殿内暗殺後の二派閥体制で、芹沢派の芹沢と新見錦が局長に、近藤派の近藤が局長に、土方と山南が、副長に就任した。

 筆頭局長には、芹沢が就任する。新見は、局長ではなく、副長であったとの説もある。

 人数的には、近藤派の方が多かったが、筆頭局長の芹沢を始め、隊の重要な地位には、芹沢派の者が多かった。

 近藤達が、百姓出身の無名の存在だったのに対し、芹沢と新見は、水戸藩士であり、既に、志士達の間では、名の通った人物であったためである。

 同年6月、壬生浪士組の芹沢、近藤などの十名の隊士は、不逞浪士の取締りのために、再度、大坂へ下った。

 その途上、力士達と乱同騒ぎを起こし、力士側には、死者が出た。

 小野川部屋の年寄が、詫びを入れ、事件は収まったが、大坂町奉行所与力の内山彦次郎が、この事件を問題にした。

 内山は、翌年、暗殺されるが、犯人は、新選組との説がある。

 壬生浪士組の結成の年、1863年(文久三年)は、久坂玄瑞を筆頭とする、長州派の尊皇攘夷志士達と、彼等と結託した、三条実美などの急進派の公卿達が、偽の勅許を乱発し、幕府に強引に攘夷を実行させようと、過激な活動を行っていた。

 公武合体派の薩摩藩と、京都守護職の会津藩は、朝廷内の尊皇攘夷派を一掃するため、中川宮朝彦親王を擁し、孝明天皇の密勅を得ると、御所九門の警備を固め、急進派の公卿と長州藩を京から追放する。

 八月十八日の政変である。

 壬生浪士組は、会津藩主の松平容保の命を受けて、御花畑門の警護を担当しているが、目立った活動はなく、長州勢の残党狩りに出動した。

 この時の働きが認められ、「新選組」の名を賜ったのである。

 なお、「新選組」は、松平容保から賜ったとの説と、武家伝奏から賜ったとの二説がある。

 浪士組の上洛から、約半年、遂に「新選組」が誕生した。




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