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【近藤勇】09.芹沢鴨

 壬生浪士組、改め、新選組の筆頭局長、芹沢鴨の浪士組に参加するまでの前半生には、諸説があり、定かではない。芹沢が、水戸藩士であることは、確実である。

 芹沢の前名は、攘夷断交のために奔走した、水戸藩士の下村嗣次との説が有力である。

 下村は、1858年(安政五年)、孝明天皇が、水戸藩に勅書を下賜した、戊午の密勅の返納阻止運動に参加していたと言われる。

 その後、1860年(万延元年)頃に、玉造村の文武館を拠点として、横浜で、攘夷を断行するため、豪商を周り、資金集めに奔走した、玉造勢に参加している。

 当時の下村の仲間に、新見錦の前名と言われる、新家粂太郎がいる。

 玉造勢は、水戸藩の領内、天領において、強引に資金の取り立てを行ったため、代官の佐々木道太郎が、幕府に上申し、水戸藩主の徳川慶篤は、1861年(文久元年)2月、不法の者どもを召し捕らえ、場合によっては、斬っても構わないとの命令を下した。

 玉造勢の捕縛が始まり、下村は、3月に牢獄に入れられる。

 同年12月、慶篤は、戊午の密勅を受領し、返納阻止運動に参加した者達の釈放が行われた。

 しかし、下村達の所業は、目に余ったため、水戸藩は、彼等の釈放を躊躇したが、1863年(文久三年)1月に、下村、新家などの玉造勢を釈放した。

 浪士組の結成は、その一カ月後である。

 水戸藩士の下村嗣次と、新家粂太郎は、各々、芹沢鴨、新見錦と名を改め、江戸へ出て、浪士組に参加したと推測される。

 浪士組の募集条件の一つは、今まで、罪を犯した者も、罪を免除される、大赦であった。

 下村、新家にとって、最高の条件であろう。

 上洛後、清河八郎が、江戸への帰還と攘夷の実行を提案した時、下村=芹沢が、何故、反対したのかは不明である。

 下村時代の芹沢の活動は、尊皇攘夷であるため、政治思想の相違でないことは確かである。

 芹沢は、単に、大赦の条件が、覆されることで、玉造勢の時代の罪によって、再び、捕縛されることを恐れたのではないかと考えられる。

 壬生浪士組結成直後に、大坂の豪商、平野屋五兵衛から、百両を借用するなどの行動を見ると、芹沢が、下村時代に行った、資金の取り立てと同じであることが、よくわかる。

 資金の取り立ての名目が、尊皇攘夷から、京の治安維持に変わっただけである。

 壬生浪士組結成後、水口藩の公用方が、会津藩邸において、会津藩公用方に、壬生浪士組の所業の悪さを訴えた。

 芹沢は、それを聞くと、永倉、原田、井上、そして、武田観柳斎の四人を差し向けて、公用方の身柄引き渡しを、水口藩に求めた。

 水口藩は、平身低頭に謝罪すると、詫び証文を書いて、その場を納めた。

 しかし、詫び証文を書いたことが、藩主の耳に入れば、公用方の断罪の可能性があった。

 水口藩は、直心影流道場の戸田一心斎を通じ、壬生浪士組に、証文の返却を依頼し、会議の場所を提供すれば、返却するとの回答を得た。

 翌日、角屋にて、宴席が設けられた。

 席上、証文は問題なく返却されたが、席上で、酒乱の芹沢が、店の対応に腹を立てて、暴れ始めた。

 自慢の鉄扇を振り回し、店内の食器・什器を悉く叩き割り、は廊下の手摺りを外し酒樽に叩きつけて、帳場を酒浸しにしてしまった。

 そして、最後に、店主である、角屋徳右衛門に、七日間の営業停止を申し渡し、意気揚々と引き上げたと言われる。





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