【正義】と【平和】

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 芹沢派の粛清によって、新選組は、近藤派の支配体制が確立した。

 近藤勇は、新選組の唯一の局長になる。

 唯一の副長には、土方歳三。総長には、山南敬助が就任する。

 山南の総長とは、名ばかりの存在で、新選組の実権は、事実上、土方の手に握られた。

 試衛館以来の同志達は、剣客集団であったが、山南は、その中で、唯一、学識が深く、近藤が、新選組の局長として、会津藩及び、他藩の藩士達と交流する上では、欠かせない存在であった。

 一方、土方は、組織の構築に稀有な才能を有し、新選組を浪士集団から、真の戦闘集団へと築き上げた。

 近藤にとって、土方と山南は、車の両輪であったと言える。

 しかし、土方と山南は、不仲であったと言われる。近藤が、山南の学識を頼ったのは、百姓の出身で、自身に学識が無かったためである。

 無論、同じく、百姓の出身の土方にも、学識はなかった。土方の組織構築の才能は、天賦の才であったのであろう。

 局長の近藤にとっては、両者は、不可欠の存在であったが、土方と山南は、互いの才能を認めつつも、二番目の地位を巡って、競争関係にあった。

 しかし、組織に関する才能を有する、土方が、新選組の実権を握り、山南は、総長という、飾り物にされたのである。
 
 新選組には、壬生浪士組の時代から、既に、人材が集まりつつあった。

 後に四番組組長に就任する、松原忠司は、播磨国小野藩の藩士の息子で、大坂において、北辰心用流柔術の道場を開いていた。八月十八日の政変以前には、新選組に入隊している。

 温厚な人柄で、壬生界隈には、「親切者は山南と松原」との言葉が伝わっていた。
 
 後の五番組組長、武田観柳斎は、出雲国母里藩の藩士の息子として生まれた。本名は、福田廣。

 福田は、脱藩して、江戸へ赴くと、甲州流軍学を修めた。

 徳川家康は、同盟者の織田信長よりも、敵であった、武田信玄の軍略を、高く評価していた。

 恐らく、家康は、信長の才能を恐れたが、時代を超越していたために、理解はできなかったのであろう。

 江戸時代には、武田信玄の戦術が、兵学の主流の一つとなった。

 福田は、甲斐武田氏に因んで、武田観柳斎を称したのである。

 観柳斎は、神道無念流の剣術を学んでいたため、剣の腕も確かであったと言われる。

 近藤は、軍学者として、観柳斎を重用した。

 観柳斎は、軍学、剣術の能力を有していたが、人徳はなく、彼を嫌う、隊士が多かったと言われる。

 その理由は、観柳斎の巧な弁舌によって、近藤に取り入り、媚び諂うなど、腕に覚えのある者の集まる、剣客集団には、嫌悪感を与える、行為のためであった。

 後の七番組組長、谷三十郎は、備中松山藩士、谷三治郎供行の嫡男として生まれ、藩主の板倉勝静に近習役として仕えた。

 しかし、詳細は不明であるが、1856年(安政三年)に、不祥事案によって、谷家は断絶となる。

 その後、故郷を離れ、万太郎と千三郎の二人の弟と共に大坂に出ると、道場を開いた。

 三十郎の武術は、種田流槍術の師範、神明流剣術の指南役など、諸説があって、定かではない。

 槍術の達人は、万太郎との説もある。

 谷三兄弟は、同時期に新選組に入隊している。

 入隊時期は、八月十八日の政変の直後と考えられる。

 三男の千三郎は、後に近藤勇の養子となって、近藤周平を称した。

 しかし、兄の三十郎の死後、養子縁組を解消し、谷姓に復している。




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