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【近藤勇】12.局中法度

 正確な時期は不明であるが、壬生浪士組は、結成後、烏合の集の浪士達を統率するため、隊規を作成した。

 史上、有名な「局中法度」である。

 なお、局注法度という名称は、後世の造語であるらしく、当時は、「法令」「禁令」等と呼ばれていたようである。

 局中法度は、近藤派が作成して、芹沢派に承認させたと考えられる。

 遊蕩と乱暴狼藉を繰り返す、芹沢派が、自分達を束縛する、規則を自ら、作成するとは思えないためである。

 ただし、何らかの規則が必要なことは、認めていたのであろう。

 局中法度は、次の五箇条であった。

 1.士道ニ背キ間敷事(武士道に背くことをしてはならない)

 2.局ヲ脱スルヲ不許(新撰組からの脱退は許されない)

 3.勝手ニ金策致不可(無断で借金をしてはならない)

 4.勝手ニ訴訟取扱不可(無断で訴訟に関係してはならない)

 5.私ノ闘争ヲ不許(個人的な争いをしてはならない)

 右条々相背候者切腹申付ベク候也(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡す)
 
 なお、最後の私ノ闘争ヲ不許は、存在しなかったとの説もある。


 実際に、局中法度が、機能を始めたのは、新選組と名を改め、芹沢派を粛清した後と、考えられる。

 最初の「士道ニ背キ間敷事」の様に、内容は、非常に抽象的で、局長・副長の解釈によって、内部粛清のために、都合良く、利用された。

 「士道」に拘ったのは、逆に、局長の近藤、副長の土方が、武家の出身ではなく、百姓の生まれであったためであろう。

 なお、芹沢派の中で、最初に粛清された、芹沢の腹心、新見錦は、「士道ニ背キ間敷事」によって、切腹させられている。

 1863年(文久三年)の結成から、1868年(慶応四年)の五年間で、新選組隊士の死者は、四十五名であるが、倒幕志士との戦闘による、死者は、六名に過ぎない。

 他の三十九名は、法度を犯したため、切腹、もしくは、斬首されたのである。

 内部粛清による、死者の多くは、「士道ニ背キ間敷事」「局ヲ脱スルヲ不許」の二条が、適用されたと考えられる。

 新選組は、本来の役割の倒幕志士との戦闘ではなく、9割近くが、内部粛清によって、殺害されたのであった。

 新選組の隊旗は、山形の模様=ダンダラ模様に、赤字に金、もしくは、白で染め抜いた、「誠」の字で有名である。

 その隊規が現れると、敵は、恐怖で、凍りついたと言われる。

 それは、京のみならず、戊辰戦争、そして、最後の五稜郭の戦いでも、同様であった。

 隊士は、袖口にダンダラ模様を染め抜いた、水色の羽織を着用していた。

 しかし、羽織の着用は、池田屋事件の後に廃止され、その後は、黒衣・黒袴の黒ずくめの服装であったと言われる。また、黒羅紗筒袖の陣羽織を着用していたとの説もある。

 芹沢派粛清後の組織は、局長を筆頭に、副局長、総長、副助勤、監察方、会計方などの役職があった。

 副助勤は、組長として、平隊士を統率し、各組は、十名前後で構成された。

 また、組長の下には、伍長が置かれている。




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