【正義】と【平和】

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 1864年(元治元年)6月5日の亥の刻(22時)頃、近藤隊は、池田屋において、密謀中の尊皇攘夷派の過激志士達を発見した。

 物語等では、この時、諸士調役兼監察の山崎丞が、薬屋に変装して、既に、池田屋に潜入しており、志士達の刀を集めて、片付けてしまい、更に近藤達の突入前に戸の錠を開けたことになっているが、物語上の創作と言われる。

 この時、池田屋には、肥後藩士の宮部鼎蔵、土佐藩士の北添佶摩を始め、四十名以上の志士達がいた。

 新選組の近藤隊は、十名に過ぎない。

 しかし、近藤は、躊躇しなかった。

 志士達に逃がさないように、十人中、六人に池田屋の周囲を固めさせると、近藤、沖田、永倉、藤堂のわずか、四人で、池田屋に踏み込んだのである。

 無論、狭い、室内であるため、数が多ければ、有利というわけではない。

 しかし、十倍以上の敵を相手に、四人で踏み込むのは、並の胆力では不可能であろう。

 志士達は、四人に襲撃されると、応戦しながら、現場からの脱出を図った。

 藤堂は、一階で戦ったが、油断して、鉢金を取った時に額を斬られて、血が目に入り、戦線を離脱した。

 沖田は、二階において、志士達を相手に奮戦したが、その最中、突如、喀血したために、戦線離脱を余儀なくされたと言われる。

 近藤と永倉は、わずか、二人で、志士達を相手に奮戦した。土佐脱藩浪士の望月亀弥太を始め、数人の志士達が、裏口からの脱出を試みる。

 そして、裏口を守っていた、新選組の安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門達に必死に斬り込み、逃亡に成功する。

 奥沢は、その戦闘で死去。安藤、新田は、一カ月後に、死去した。

 近藤と永倉が、獅子奮迅の戦いを見せる中、四国屋へと向かった、土方隊が、近藤隊の報告を受け、池田屋に駆けつけたため、戦局は逆転し、新選組有利に傾いた。

 この時点で、近藤は、「斬り捨て」から、「捕縛」へと方針を変えている。

 新選組は、「人斬り集団」として、恐れられたが、実際には、彼等の任務は、基本的には、「捕縛」であった。

 しかし、池田屋事件の戦闘開始時点の様に、敵の戦力が、圧倒的に、上回っている場合には、捕縛は不可能であるため、斬り捨てるしかなかった。

 京都守護職の会津藩、京都所司代の桑名藩の援軍は、戦闘後に到着した。

 土方は、手柄を横取りされないように、周囲を新選組の隊士に固めさせて、会津藩、桑名藩の藩士達を、池田屋に一歩も近づけさせなかったと言われる。

 尊皇攘夷派の志士の巨頭、肥後藩士の宮部鼎蔵は自害。

 土佐脱藩浪士の北添佶摩は戦死。

 林田藩士の大高又二郎は、戦死。

 土佐藩士の石川潤次郎は、戦死。

 長州藩士の広岡浪秀は、戦死など、池田屋の戦闘では、尊皇攘夷派の中核人物が、新選組によって、殺害された。

 望月亀弥太は、脱出後、長州藩邸に辿り着くが、中へ入ることを許されず、長州藩邸の門前で、自害した。

 松下村塾の吉田松陰門下の三秀と言われた、長州藩士の吉田稔麿は、新選組が踏み込んだ時、藩邸に戻っていたが、池田屋からの脱出者から、異変を聞くと、池田屋に向かい、戦死したと言われるが、諸説があって、定かではない。

 『花燃ゆ』では、異変を知ると、自ら、池田屋に向かい、戦死している。




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