【正義】と【平和】

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 池田屋には、四十数名の志士達がいたため、脱出した、志士達も多く、翌朝、新選組は、会津藩、桑名藩、彦根藩等と連携して、市中掃討を行い、二十数名を捕縛した。

 この時、会津藩は、五名。桑名藩は、二名、彦根藩は、四名の即死者を出すなど、激戦となった。

 御所焼き討ちを未然に防ぐ事に成功した、新選組の名は、天下に轟いた。

 尊皇攘夷派は、宮部鼎蔵、北添佶摩、吉田稔麿、大高又次、石川潤次郎、杉山松助、松田重助の中核人物を失ったため、大打撃を受けた。

 彼等は、明治新政府に、「殉難七士」と呼ばれる。

 池田屋事件によって、中核人物が失われたため、明治維新は、一年遅れたと言われる。

 また、池田屋事件は、尊皇攘夷派を刺激することになり、彼等に討幕を決意させたため、逆に、明治維新が、早まったとの解釈も存在する。

 新選組は、尊王攘夷派の過激志士達の捜索を続け、東山の料亭「明保野亭」に、浪士が、潜伏しているとの情報を得た。

 6月5日、武田観柳斎の率いる、新選組の十五名の隊士と、五名の会津藩士が、明保野亭に向かって、出動した。

 当時、新選組は、池田屋事件直前の集団脱走と、事件当日及び、その後の市中掃討における、負傷によって、人員が不足し、会津藩から、応援が派遣されていたのである。

 総計二十名の新選組及び会津藩士達が、明保野亭に踏み込むと、座敷にいた、武士が、逃走しようとした。

 そのため、会津藩士の柴司は、追いかけ、庭先に追い詰め、背後から、手槍で腰を突いて、後ろ傷を負わせた。

 直後に相手が、「自分は、浪士ではない。土佐藩士の麻田時太郎である」と名乗った。

 新選組及び会津藩士達は、土佐藩の確認が取れたため、解放し、麻田は、土佐藩邸に引き取られた。

 会津藩は、事情聴取の上、柴司の行為は、正当な職務遂行であり、問題なしと裁決し、念のため、土佐藩邸に見舞の使者と医師を送った。

 これに対して、土佐藩側は、最初に、名乗らなかった、麻田に落ち度ありとして、公式には、穏便に処理する姿勢であった。

 しかし、翌日の11日に土佐藩は、麻田が、明保野亭の現場で、逃走を図った上に、武士にあるまじき、後ろ傷を受けたことを「士道不覚悟」として咎め、麻田を切腹させたため、事態は急変する。

 当時、土佐藩の山内容堂は、公武合体を支持していたため、会津藩との関係も良好であったが、藩士の中には、土佐勤王党を始め、倒幕を目論む勢力があった。

 麻田の切腹を、一部の土佐藩士は、土佐藩に不公平な処理として、反発し、新撰組及び、会津藩への報復を主張する者が現れた。

 山内容堂も、藩内の強硬派を抑えることが、困難になった。

 事態は、会津藩と土佐藩の衝突に発展しかねない、状況に陥る。

 会津藩主の松平容保は、京都守護職の立場上、他藩との抗争で、会津藩が、京の治安を乱すこと許されない。

 しかし、土佐藩の面子を立てて、事態を収拾するには、両成敗で、柴を処断するしかないが、一度は、正当と裁決したため、切腹を命じる名分がなかった。

 柴は、藩主の苦悩を聞くと、兄と相談の上、自主的に切腹することで、藩の苦境を救う決意をする。

 翌日の12日に、柴司は、兄の介錯で切腹し、両藩の衝突は回避された。

 柴司の葬儀には、会津藩士の他、土方など、新撰組隊士たちも参列し、その死を惜しんだ。





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