【正義】と【平和】

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 近藤は、右肩を撃たれたが、落馬を免れ、隊士達が、刀で馬の尻を叩いて、走らせた。

 そのため、佐原が、斬りつけようとしたが、間に合わなかった。

 篠原と加納は、槍を手に潜んでいたが、戦いが始まる前に、逃げてしまった。

 この時、近藤の供をしていたのは、島田、横倉甚五郎、井上新左衛門、草履取りの芳介の四人であったが、井上と芳介は、阿部と富山に殺害された。

 近藤は、重傷を負ったため、大阪城の徳川慶喜は、夜具、松平容保は、見舞金二十両を贈り、医師を派遣した。

 しかし、伏見では、十分な治療が不可能なため、二日後の12月20日、近藤は、沖田と共に大坂へ下って、町奉行所の一室で、療養することになる。

 局長の近藤の離脱によって、新選組の指揮は、副長の土方に委ねられた。

 年が明けた、1868年(慶応四年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。

 新選組は、奮戦するが、薩摩軍による、大砲の圧倒的な火力を前に、伏見奉行所は焼け、撤退せざるを得なかった。

 5日には、淀千両松で、激戦が繰り広げられる。

 井上源三郎は、隊士と共に、堤の上に放置されていた、大砲を撃っていたが、敵の反撃を避けて、堤の下に隠れた。しかし、流れ弾が、腹部に命中して、源三郎は、死去した。享年、四十歳。

 山南、藤堂に続く、試衛館以来の同志の三人目の死であり、天然理心流の四人(近藤、土方、沖田、井上)の中では、最初の死であった。

 源三郎の甥で、新選組の隊士となっていた、井上泰助は、源三郎の遺体の首を落として、刀と共に引き揚げようとしたが、余りの重さに耐え兼ね、他の隊士達から諭されて、近くの寺院の境内に、首と刀を埋葬したと言われる。

 翌日、新選組は、他の旧幕府軍と共に奮戦するが、友軍の津藩兵が、寝返ったために、旧幕府軍は、全軍が、敗走せざるを得なくなった。

 1月7日、旧幕府軍は、大阪城へ戻るが、衝撃の事実が待ち受けていた。

 徳川慶喜、会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬が、少数の幕閣と共に大阪城を去り、海路、江戸へ帰還していたのである。

 主のいない、城内では、主戦論が叫ばれ、近藤は、土方に伴われて、大阪城に登城し、籠城を訴えた。

 しかし、慶喜は、事前に、旧幕府軍の解散を命じていたため、旧幕臣は、江戸へ、諸藩の兵達は、各々、国許へ帰還することになった。

 なお、新選組は、三日から、六日までの戦いで、受傷後の死者を加えると、犠牲者は、二十人に及んだ。

 新選組は、旧幕府艦隊に乗って、江戸へ帰還することになった。

 近藤を始め、負傷者は、富士山丸に、無傷の永倉達は、順動丸に乗船し、各々、1月10日と11日に、海路、江戸へ向かった。

 その途上、千両松の戦いで、重傷を負った、山崎丞が、水葬されている。

 順動丸は、1月12日に品川へ入港し、永倉を始め、六十数名の隊士は、品川宿の釜屋を仮の屯所とした。

 一方、富士山丸は、14日に横浜に入港。重傷者を、仮病院の仏語伝習所に入院させた。翌日、富士山丸は、品川に入港すると、近藤、沖田などの負傷者と藤方は、下船した。

 土方は、負傷者ではないが、近藤に付き添い、富士山丸に乗船したと思われる。

 近藤と沖田は、18日には、神田和泉橋の医学所へ入院した。





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