【正義】と【平和】

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 新選組は、鳥羽・伏見の戦いの前には、隊士数は、約百五十名を数えたが、戦死者及び、脱走などによって、江戸の地に立ったのは、百十数名であった。

 品川入港の翌日、近藤と土方は、江戸城に登り、鳥羽・伏見の戦いについて、尋ねられると、土方は、最早、剣と槍の時代ではなく、銃と大砲が必要と語っている。

 旧幕府は、新選組の宿舎として、大名小路鍜治橋内にある、高鍋藩の秋月種樹の元役宅を用意し、品川宿の釜屋の隊士達は、1月23日に新しい屯所に移った。

 一方、徳川慶喜は、2月12日になると、新政府に恭順の意を示すために、上野の寛永寺で、謹慎生活に入る。

 新選組は、見廻組と共に、前将軍の慶喜の警護を命じられた。

 陸軍奉行の勝海舟は、前将軍の徳川慶喜から、江戸無血開城の全権を委任されていたが、江戸には、徹底抗戦を叫ぶ者も多く、脱走歩兵等の鎮撫が必要になった。

 当初、市中取締の彰義隊に打診したが、頭取の渋沢成一郎に拒否されたため、新選組に白羽の矢が立った。

 一方、新政府軍は、東海道・東山道・北陸道の三道に、征討軍を派遣する。

 土佐藩士の板垣退助を先鋒総督府参謀とする、土佐迅衝隊と因幡鳥取藩兵などが、東山道を進んだ。

 旧幕陸軍総裁の勝海舟と旧幕会計総裁の大久保一翁は、近藤勇と新選組に対し、甲陽鎮撫の任務を与えた。

 勝の狙いは、徹底恭順に反対する、徹底抗戦派の近藤及び、脱走歩兵等を江戸から遠ざけ、排除することにあったと言われる。

 幕府は、2月28日、四十九人の隊士と二十一人の仮隊士に五百九十五両の手当を支給し、大砲と小銃を引き渡した。

 新選組は、「甲陽鎮撫隊」を称し、江戸を出発する。

 先発隊は、2月30日に、内藤新宿に宿泊し、浅草の弾左衛門の配下の俄仕立ての兵百名と合流すると、翌日の3月1日には、本隊と迎え、甲州街道を進軍した。

 近藤勇は、大久保剛を称して、駕籠に乗り、土方歳三は、内藤隼人を名乗り、断髪して、洋装の姿で、馬に乗って進んだ。

 同日、府中宿に泊まり、近藤は、義兄弟の契りを結んだ、佐藤彦五郎を招いて、甲陽鎮撫隊への加勢を要請した。

 そして、3月2日、甲陽鎮撫隊は、多摩郡の日野宿を通過する。多摩郡は、近藤と土方の故郷であり、二人にとっては、故郷に錦を飾る想いだったであろう。

 多摩の百姓の息子が、旗本と御家人になって、故郷へと足を踏み入れたのである。

 沖田総司は、日野宿までは、共に進軍し、佐藤家に姿を見せているが、この後、療養のために、江戸へ戻った。

 この時、佐藤彦五郎を隊長とする、農兵二十余人の春日隊を加えると、進軍を続けて、その日は、与瀬宿に泊まったが、3月3日に、猿橋宿からの進軍中、新政府軍の分遣隊が、明日にも、甲府へ進出するとの報告を受け、甲陽鎮撫隊は、駒飼宿に宿陣した。

 甲陽鎮撫隊は、新選組の七十名の隊士及び、仮隊士、弾左衛門の配下の百名、春日隊の二十余人と、二百名弱の兵のみで、新選組の正規の隊士、四十九人を除けば、実戦経験が、皆無に等しい、素人集団に過ぎなかった。

 土方は、その状況で、新政府軍と戦えるとは、考えなかったのであろう。

 翌日、土方は、援軍を要請するため、江戸へ向かった。

 しかし、援軍は得られず、土方の不在のまま、甲陽鎮撫隊は、惨敗を喫するのである。





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