【正義】と【平和】

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 近藤の率いる、甲陽鎮撫隊は、駒飼宿から、勝沼宿に進軍したが、戦闘が迫ったためか、弾左衛門の配下の大半の兵が、脱走してしまい、兵の総数は、百二十人余りに減少した。

 隊士達は、援軍のないまま、戦うことを拒否した。

 近藤は、やむを得ず、会津藩の援兵が、猿橋宿まで、進軍中と嘘を吐き、隊士達に出陣を承知させた。

 甲陽鎮撫隊の士気は、京の新選組の時代とは、比較にならないほどに低く、兵数、武装に勝る、新政府軍の迅衝隊を相手に、勝てるはずもなかった。

 近藤は、勝沼宿の東側の入口である、等々力に関門を設け、柏尾の白山平に本陣を置き、柏尾橋を落とした。

 そして、柏尾坂の上に二門の大砲を据えると、その背後に陣取った。

 そして、白山平左手の岩崎山に永倉の部隊と、右手の菱山方面に斎藤の部隊を置いた。

 1868年(慶応四年)3月6日、新政府軍は、甲府から進軍し、等々力の関門を突破する。

 そして、正午には、原田の守る、本陣への攻撃が開始された。

 甲陽鎮撫隊の隊士は、大砲の扱いに不慣れなため、その威力を全く、発揮できなかった。

 岩崎山の永倉の指揮下には、春日隊と、地元で駆り集めた、猟師達が加わっていたが、猟師達は、敗色が濃くなると、逆に、永倉達に発砲を始めたため、永倉は、春日隊と共に退却せざるを得なかった。

 斉藤の守る、菱山方面は、新政府軍の攻勢に成す術無く、一気に抜かれ、本陣は、正面と側面、岩崎山からの攻撃を受けることになる。

 敵兵が、本陣に迫り、近藤は、危機に陥ったが、仮隊士の佐々木一が、敵中に斬り込み、近藤は、危うい命を救われたと言われる。

 甲陽鎮撫隊は、迅衝隊に、わずか、二時間で、大敗し、八王子方面への敗走を余儀なくされたのである。

 近藤は、途上の吉野宿で、迎撃を試みるが、会津藩の援軍が来るとの近藤の嘘が露呈し、隊士達は、完全に戦意を失った。

 甲陽鎮撫隊は、3月7日、八王子宿に到着し、永倉と原田の説得にも関わらず、隊士達は、最早、戦おうとはせず、甲陽鎮撫隊は、解散した。

 近藤は、吉野宿において、土方と再会すると、八王子宿で、永倉と原田に隊士を任せ、土方と共に江戸へ向かった。

 この時、近藤は、永倉と原田に、江戸までの隊士の取り纏めを依頼したに過ぎない。

 しかし、永倉と原田は、近藤が、橋尾の戦いで、隊士達に会津藩の援軍が来るとの嘘を吐き、信頼を失ったため、二人に新選組の今後を託したと誤解した。

 3月10日、永倉と原田は、隊士達を連れて、江戸へ戻ると、今後について、相談した。

 その結果、会津藩へ向かい、再起を図ることに決した。

 翌日の3月11日、永倉と原田は、医学所にいた、近藤と再会し、隊士との合議の結果を伝え、同行を提案した。

 しかし、近藤は、永倉と原田に怒り、提案を拒絶した。

 近藤は、自分のいない場所で、新選組の今後の決議が行われたことを、永倉と原田の越権行為とし、二人に、自分の家臣になるのであれば、同意すると迫ったのである。

 確かに、幕臣化の際、近藤は、旗本に、永倉と原田は、御家人となり、彼等の間には、身分の差が生じていた。

 しかし、永倉と原田は、近藤は、あくまで、同志であって、主従関係にあるとは、考えていなかった。

 二人は、完全に近藤と決裂することになる。






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