【正義】と【平和】

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 永倉と原田は、近藤の家臣になることを拒絶し、新選組を脱退した。

 この段階において、最早、新選組の法度にある、「局ヲ脱スルヲ不許」は、有名無実化していた。

 近藤と土方も、この期に及んで、永倉と原田を引き留めようとはしなかった。

 永倉と原田に従ったのは、数名の隊士のみで、他の隊士達は、近藤と行動を共にする道を選んだ。

 永倉と原田の離脱によって、試衛館以来の同志は、近藤と土方、斎藤の三人になった。

 沖田は、この頃、旧幕陸軍の軍医、松本良順により、千駄ヶ谷の植木屋に匿われていたが、病は重く、最早、復帰の見込みはなく、死を待つばかりであった。

 新選組の全盛期である、池田屋事件以来の古参の隊士は、尾形俊太郎、島田魁等、数えるほどしか、残っていない。

 近藤は、この頃、大久保剛から、更に変名し、大久保大和を称した。

 甲陽鎮撫隊では、土方も、内藤隼人を称している。

 戊辰戦争は、会津戦争の頃までは、新政府軍の復讐戦の要素が強く、新選組は、倒幕の志士達の怨嗟の的であった。

 近藤と土方が、死を恐れていたとは思えないが、新選組の元局長と元副長であることが、判明すれば、即座に殺害されることは間違いなく、更に、居場所がわかれば、新政府軍は、追手を差し向けるに違いない。

 近藤と土方は、新政府軍と最後まで、戦い抜くためには、未だ、死ぬわけにはいかないと考えており、そのための変名であったと思われる。

 新選組の隊士は、四十人ほどに過ぎず、会津藩に赴いても、戦力になるとは言い難い。

 近藤と土方は、新選組を戦力として、再起させた後に、会津藩に赴くことを考えていた。

 そのため、斎藤一に負傷者を託し、会津へ先発させている。

 近藤は、五兵衛新田の名主見習いである、金子健十郎の邸宅に、隊士達を集結させた。

 金子家を手配したのは、近藤と親しい間柄の松本良順であったと言われる。

 江戸での募集によって、隊士は、続々と増え、4月1日には、新選組は、二百二十七名に達した。

 4月1日、新選組は、拠点を、幕府の直轄地であった、下総国流山に移転する。

 近藤は、新隊士達に戦闘訓練を施す場所を探していた。

 流山には、桑名藩の御用商人、鴻池がおり、桑名藩が、新選組の流山移転を仲介したと言われる。

 しかし、旧幕の陸軍奉行、勝海舟と、陸軍奉行並の松平太郎は、近藤に、五兵衛新田に残留するように命じていた。

 近藤は、無許可のまま、流山へ移転したのである。

 新選組は、流山では、地廻酒問屋を営む、鴻池の屋敷を本陣とした。

 一方、3月30日、新政府軍は、既に、新政府に帰属していた、宇都宮藩の危機を知ると、4月1日に、板橋宿を出陣した。

 その日は、千住宿に宿衛し、翌日には、日光街道を進んで、粕壁宿から杉戸宿に宿陣する。

 その際に、新政府軍は、流山に、武装集団が進出したとの情報を得た。

 新政府軍は、二手に分かれ、一軍は、宇都宮に向かった。

 水戸藩士の香川敬三の率いる、残りの新政府軍は、薩摩藩士の有馬藤太が、斥候となり、武装集団の存在を確認すると、武装して、流山市街に進んだ。

 不運なことに、この日は、新選組は、近くの飛地山において、野外訓練を行っていたため、本陣に残っていたのは、近藤と土方、そして、わずか、数名の隊士のみであった。






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