【正義】と【平和】

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 正午頃、新政府軍は、新選組の本陣を囲み、有馬が、使者となった。

 土方を始め、三人の隊士が、有馬を応接し、頓集の目的を、江戸からの脱走兵の取締りと、一揆の噂のための鎮撫と説明したが、有馬は、それらは、新政府軍の役目として、武装解除を命じた。

 最早、逃れる道はなく、近藤は、切腹を決意したが、土方が制止する。

 土方は、近藤に、ここで切腹するのは、犬死であり、運を天に任せて、板橋総督府に出頭して、あくまで、鎮撫隊を主張するべきだと、訴えたと言われる。

 近藤は、土方の説得に応じ、旗本の「大久保大和」として、新政府軍に出頭する。

 既に、新政府軍内には、大久保大和が、新選組の局長、近藤であることを指摘する声があった。

 近藤は、野村利三郎と共に、前後を兵に固められ、越谷宿の新選組本営に赴いた。

 近藤と野村は、捕縛され、翌日、板橋の総督府へ護送された。

 土方は、相馬主計等と共に江戸へ向かい、流山の隊士達は、百人ほどが、会津へ向かったが、残りは、脱走した。

 新参の隊士達の半数以上が、近藤の出頭に動揺し、戦意を失ったのである。

 近藤は、4月4日、板橋宿の総督府に到着したが、不運なことに、そこには、御陵衛士の残党の加納鷲雄と清原清がいた。

 二人は、薩摩軍に従って、板橋に駐留していたのである。

 その時点までは、近藤の顔を見知っている者がいなかったために、旗本の大久保大和が、新選組局長の近藤勇であるとの確証はなかった。

 しかし、元新選組隊士の加納と清原が、近藤の正体を暴いたため、近藤は、従軍していた、旗本の家に預けられた。

 近藤は、4月5日と7日に総督府の取り調べを受けると、野村と共に板橋宿平尾の脇本陣の豊田家に収容され、旗本の岡田家の監視下に置かれた。

 更に、5日に土方によって、板橋に派遣された、相馬も、近藤と面会さえできず、捕縛されてしまう。

 近藤は、足枷がはめられ、野村と相馬は、縄を打たれて、各々、別室に閉じ込められた。

 そして、4月25日、近藤は、板橋宿の「馬捨て場」という、死んだ馬や、病気で動けない、馬を捨てる広場に引き出された。

 周囲には、竹矢来が結ばれ、見物人が群集した。

 近藤は、切腹さえ、許されず、横槍によって、首を落とされた。享年、三十五歳。

 野村と相馬は、近藤と共に処刑されるはずであったが、近藤の嘆願によって、他家へと預けられた。

 後に脱走すると、蝦夷地へ渡り、土方と共に、箱館戦争を戦っている。

 近藤の遺体は、偶然、処刑の場に居合わせた、甥の宮川勇五郎が、4月28日に、親族と共に、形場から発掘すると、宮川家の菩提寺、龍源寺に埋葬したと言われる。

 近藤の首は、即座に京へ送られて、閏4月8日から、10日まで、三条河原に晒された。

 その後、東山の霊山の中腹に埋められたと言われる。

 近藤が、切腹を許されず、斬首され、更に首を晒されたことは、新政府軍の中核である、旧倒幕派の志士達の新選組への怨みが、いかに深かったのかを物語っている。

 彼等にとっては、近藤の斬首は、復讐であった。

 新選組局長、近藤は死去したが、新選組の戦いは、終わらなかった。

 新選組の物語は、副長の土方に、主人公の座が引き継がれ、戊辰戦争の最終局面、箱館戦争の最後の最後で、土方が、壮絶な死を遂げるまで、続いたのである。





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