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 土方歳三は、1835年(天保六年)、武蔵国多摩郡石田村の豪農、土方隼人の息子として、生まれた。

 近藤の一歳年下である。

 十人兄弟の末子で、父の隼人は、歳三が生まれる前に、既に、結核で死去していた。

 母の恵津も、歳三が、六歳の時に、結核で死去している。

 長兄の為次郎は、生来、盲目であったため、次兄の喜六が、土方家を継いだ。

 歳三は、喜六と、その妻のなかに養育され、成長した。

 なお、1860年(万延元年)、喜六は急死し、為次郎が、中継ぎをした後、喜六の長男の作助に嫁を迎え、土方家を継がせている。

 歳三の姉の一人、とくは、多摩郡日野宿の名主、佐藤彦五郎の妻で、彦五郎は、近藤勇と義兄弟の契りを交わしている。

 少年時代の歳三は、触ると痛い、イバラの様な、乱暴な少年との意味で、「バラガキ」と呼ばれていた。

 歳三は、十三歳から二十三歳まで、江戸の商家で、奉公をしていたと言われる。

 その後、実家秘伝の「石田散薬」の行商をしていた。

 石田散薬とは、土方家が、製造及び、販売を行っていた、骨折や打ち身、捻挫、筋肉痛、切り傷等に効用のあるとされる、薬である。

 土方家の近くの多摩川の支流の淺川に生えている、牛革草=ミゾソバを原材料として、刈り取り時期は、土用の丑の日限定であった。

 服用方法は、水ではなく、熱燗の日本酒で、服用量は一服、もしくは、一日量、一匁(3.75g)とされている。

 土方家は、明治以降も、石田散薬の製造・販売を続けており、薬効については、現在も解明されていない。

 1948年(昭和二十三年)薬事法改正に伴う、製造販売許可申請では、当時の厚生省は、「成分本質効能に関する客観性のある科学的調査研究がなされていない」として、石田散薬に限らず、民間薬の全ての薬効を認めない、との方針を示したために、製造を中止した。

 しかし、「石田散薬しか飲まない」と聞かなかった、老人もいた。

 土方は、少年期から、武士になることを夢見ており、石田散薬の行商をしながら、各地の道場において、他流試合を重ね、修業を積んだ。

 佐藤彦五郎は、天然理心流に入門し、自宅に道場を設けており、近藤勇が、出稽古に通っていた。

 土方は、佐藤家に出稽古に訪れる、近藤と出会い、1859年(安政六年)、天然理心流に、正式に入門した。

 ただし、江戸の商家で、奉公中の十七歳の年に、既に、勇の義父である、近藤周助に、仮入門の形で、門弟になっていたようである。

 新選組の物語では、近藤と土方は、幼馴染として、描かれることが多い。

 フィクションの可能性が高いが、同じく、多摩郡の百姓の生まれであるため、知り合う可能性もあり、完全にフィクションであるとは、言い切れないであろう。

 土方は、天然理心流では、目録を得たのみで、免許皆伝には至らなかったようである。

 実際、新選組では、沖田、斎藤、永倉の三人の何れかが、一、二を争う、剣術の使い手で、局長の近藤、副長の土方を上回っていたと言われる。

 しかし、土方は、行商時代、他流試合を重ねたため、天然理心流という、一つの型を、会得はできなかったが、路上での実戦では、非常に強かったと言われる。

 近藤と土方は、銃弾による、負傷の経験はあるが、剣戟において、負傷したことはない。





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