【正義】と【平和】

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 1863年(文久三年)2月、土方は、天然理心流の同門、近藤勇、沖田総司、井上源三郎、そして、試衛館の食客、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助と共に、清河八郎の浪士組に参加し、上洛する。

 清河の策謀により、浪士組の多くが、江戸へと帰還する中、土方は、芹沢鴨、近藤及び、試衛館の仲間と共に、京に残留した。

 京残留の浪士組は、会津藩預かりとなり、壬生浪士組を結成する。

 局長に、芹沢、近藤、芹沢派の新見錦が就任し、土方は、山南と共に副長の座に就いた。

 剣術、人脈の広さでは、永倉は、土方を上回るが、近藤は、土方を厚く信頼していたため、永倉ではなく、土方が、副長に選ばれたと思われる。

 また、永倉は、芹沢と同じ、神道無念流の門弟であったため、近藤は、永倉を信頼し切れず、天然理心流の同門の土方に信頼を寄せていた。

 壬生浪士組は、同年の八月十八日の政変の功績が認められ、新選組の名を賜る。

 その後、近藤と土方は、芹沢一派の粛清を始め、最初に、新見錦を切腹に追い込む。

 そして、芹沢を暗殺した。

 芹沢の暗殺に参加した者は、諸説があるが、土方は、確実に参加しているが、永倉が、参加していないことは確実で、前述の近藤と永倉の信頼関係を裏付けている。

 芹沢暗殺後、新選組は、近藤を唯一の局長とし、山南は、名目のみの総長に就任する。

 土方は、副長のままであったが、政治的な表舞台は、近藤に任せ、実際に新選組を指揮し、命令を発していたのは、副長の土方であったと言われる。

 土方は、副長助勤制、監察など、職務毎に系統的な組織を築き、新選組を機能的な戦闘集団に作り上げた。

 副長助勤制は、後に小隊制に改められて、一番から八番の小隊及び、小荷駄方の九小隊を、各組長が率いる、編成となった。

 また、後の世に、「局中法度」と呼ばれる、新選組の法度を作成したのは、土方であったと言われる。

 無論、近藤の承認を得ているが、近藤と土方は、法度を厳格に運用し、法度に違反した者は、切腹、もしくは、死罪となり、新選組隊士の死の九割近くが、倒幕志士との戦闘ではなく、法度に基づく、内部粛清であった。

 1864年(元治元年)6月5日の池田屋事件において、土方は、二十数名の隊士を率い、四国屋に向かった。

 その後、近藤隊の報告を受け、池田屋に到着すると、土方は、手柄を横取りされないように、周囲を新選組の隊士に固めさせて、会津藩、桑名藩の藩士達を、池田屋に一歩も近づけさせなかったと言われる。

 なお、池田屋事件の直前、新選組には、六十名以上の隊士がいたが、集団脱走しており、四十八名まで、減少していた。

 新選組は、「尊皇攘夷」を掲げ、隊士を募集していたため、倒幕派の志士が、入隊していた。

 彼等は、池田屋に集まった、同志である、倒幕派の志士との衝突を避けるために、脱走したのである。

 幕府は、京都市中への放火の危機を未然に防いだ、新選組に対し、会津藩主の松平容保を通じて、近藤に二十両、土方に十三両、近藤隊所属の九人に各十両、土方隊の内、屋内の戦闘に参加した、十一人に各七両、他の十二人に各五両、総額六百両を報奨金として、下賜している。

 なお、新選組には、毎月、総額百八十両の浪士金が、支払われていた。





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