【正義】と【平和】

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 池田屋事件に端を発する、禁門の変の後、新選組は、長州征伐に備え、隊士を募集した。

 この時、伊東甲子太郎が、入隊すると共に、組織を小隊制に改めている。

 その後、試衛館以来の同志である、山南が脱走、切腹した。

 土方と山南は、不仲であったとの説があるが、実際には、二人の関係は、良好であったとの説もある。

 土方は、俳句を好んだが、山南に宛てた、「水の北 山の南や 春の月」との句があった。

 この句には、土方の好きな、「春の月」の語が入っているため、「山の南」=山南とされて、二人が、仲が良かったことを示していると言われる。

 1867年(慶応三年)3月20日、伊東一派は、御陵衛士を拝命すると、新選組を離脱する。

 同年6月10日には、新選組隊士は、幕臣に取り立てられ、局長の近藤は旗本、土方を始め、その他の隊士は、御家人となった。

 百姓の生まれが、将軍の直参になったのである。

 同年、土方は、隊士募集のために、一時的に、江戸へと帰郷した。

 近藤は、長州征伐に備えた、隊士募集の際、江戸に赴いているが、土方は、上洛以来、初めての帰郷であった。

 この時、土方は、多摩郡の実家と佐藤彦五郎の家に立ち寄っている。

 「バラガキ」の歳三が、将軍直参の御家人に取り立てられ、故郷に錦を飾ったのである。

 その後、近藤と土方の予測を超えて、時勢は、移り変わり、十五代将軍の徳川慶喜は、大政奉還を行い、幕府は、事実上、消滅した。

 近藤と土方は、御陵衛士の伊東が、近藤の暗殺を企てていることを、間者の斎藤からの報告で知ると、油小路において、伊東一派を暗殺した。

 この時、試衛館以来の同志の一人、藤堂平助も、殺害している。

 同年12月9日、王政復古が、宣言されると、京の市中は、不穏な空気に包まれ、佐幕派と倒幕派は、一触即発の状態に陥った。

 徳川慶喜は、無用な摩擦を避けるため、京を離れ、大坂へと下る。

 新選組も、京市中を離れ、12月16日に、屯所を伏見奉行所に移転した。

 その二日後、近藤は、御陵衛士の残党、阿部、富山、佐原、加納、篠原に襲撃されて、富山の放った、銃弾が、近藤の右肩を直撃した。

 近藤は、重傷を負って、療養のために、同じく、結核で療養中の沖田と共に、大坂に向かった。

 副長の土方は、近藤に代わって、局長不在の新選組の指揮を執ることになったのである。

 1868年(慶応四年)1月3日、大坂から入京を目指す、旧幕軍と、赤池付近を警備する、薩摩軍との間で、戦闘が始まる。

 鳥羽・伏見の戦いである。

 伏見奉行所には、新選組の他、会津藩兵、旧幕伝習隊が布陣していた。

 薩摩軍は、北方の御香宮神社の高台から、砲弾の雨を降らせた。

 会津藩の大砲隊が反撃し、土方は、永倉に抜刀隊を率いての突撃を命じた。

 しかし、民家に潜む、敵兵達の銃弾を受けて、撤退を余儀なくされた。

 薩摩軍の圧倒的な火力に、伏見奉行所は炎上し、新選組は、夜戦を行いながら、肥後橋付近へと退くと、翌日の4日は、淀城下で休陣している。

 旧幕軍は、態勢を整えるため、淀城へ入城しようとしたが、淀藩は、藩主の旧幕老中の稲葉正邦が、不在のために、入城を拒絶する。

 5日には、淀堤の千両松方面で、一進一退の激戦が繰り広げられ、新選組では、試衛館以来の同志である、井上源三郎が、戦死している。





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