【正義】と【平和】

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 仙台には、桑名藩主の松平定敬、備中松山藩主の板倉勝静、唐津藩世子の小笠原長行の一行が滞在していたが、蝦夷地への随従を許される、藩士は、各藩、二、三人とされて、それ以外の藩士の進退は、自由とされた。

 当然、藩士達は、困惑した。

 新選組は、五十名程度から、二十数名に減少したが、土方は、それらの藩士達を新選組に誘ったのである。

 各藩主、世子の藩士のままでは、蝦夷地への渡航が許されなかったが、新選組の隊士になれば、蝦夷への渡航が可能となる。

 その結果、桑名藩士が二十七名、松山藩士が八名、唐津藩士が二十三名、更に、伝習隊の三十人が加わり、新選組は、百名を超えた。

 「新選組」の名は、旧幕軍において、既に、伝説化していたのである。

 彼等は、最後の新選組として、蝦夷地で戦うことになる。

 1868年(明治元年)10月23日、大鳥圭介の率いる、旧幕軍と旧幕艦隊に乗船していた、旧幕陸軍の二千二百数十名に、海軍を加えた、三千名の旧幕府艦隊は、開陽と旗艦とする、七艦で、折浜を出港し、蝦夷地の内浦湾鷲ノ木を目指した。

 旧幕艦隊は、10月20日に内浦湾に上陸すると、21日には、大鳥を総督とする部隊が、内陸部の本道を進み、箱館を目指した。

 一方、土方は、額兵隊、衝鋒隊、陸軍隊を率いて、海岸沿いの間道を進んで、五稜郭へと向かった。

 土方は、既に、単なる、新選組の指揮官ではなく、旧幕軍の幹部として、扱われていた。

 故に、新選組は、大鳥の指揮下で、五稜郭に向かっている。

 土方には、江戸から同行した、島田魁を筆頭とする、「守衛新選組」が従った。

 当時、箱館の五稜郭には、清水谷公考が、明治新政府の府知事として、赴任していた。

 旧幕軍は、無用の戦いを避けるため、使者を派遣するが、箱館府軍の奇襲を受ける。

 24日、大鳥軍は、大野村と七重村で、土方軍は、川汲峠で、箱館府軍を敗走させた。

 清水谷公考は五稜郭の放棄を決め、新政府軍は、蝦夷地を離れて、青森へと退却する。

 旧幕軍は、10月26日に、五稜郭へ無血入城を果たし、榎本は、艦隊を箱館へ入港させた。

 旧幕軍は、蝦夷地の唯一の藩、松前藩に降伏勧告の使者を送る。

 しかし、松前藩は、使者を殺害し、降伏を拒絶したため、10月28日、土方を総督とする、松前攻略軍が編成され、五稜郭を出陣する。

 彰義隊、額兵隊、陸軍隊、工兵隊、砲兵隊、衝鋒隊の総勢、七百名が、土方の指揮下に入った。

 なお、新選組は、参加していない。

 松前攻略軍は、11月1日、松前領に入る、知内村に宿陣した。

 その夜、松前藩の夜襲を受けたが、撃退すると、5日早暁には、松前城下に進軍した。

 松前城の東方、及部川を挟み、午前七時頃より、戦闘が開始され、十一時には、松前藩兵を退却させている。

 攻略軍は、松前城下に進撃し、城東の高台にある、法華寺に大砲を引き上げ、城下町を挟んで、松前城に砲撃を浴びせた。

 既に、10月28日に、藩主の松前徳広が、内陸の館城に移動しており、松前城は、寡兵しかいなかった。

 しかし、彰義隊が、城門に迫ると、松前藩兵は、城門を開いては、大砲を発射し、再び、閉じることを繰り返して、奮戦を続けた。

 そのため、城門での戦闘は、膠着状態に陥った。



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