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 箱館政権は、アボルダージュのために、回天丸・蟠竜丸・高雄丸の三隻を宮古湾に向け、出撃させた。

 土方は、陸軍を代表し、甲鉄に接舷する、蟠竜丸と、高雄丸の検分役として、相馬主計、野村利三郎と共に、回天に乗り込んだ。

 しかし、暴風雨に遭遇したため、蟠竜丸は、脱落し、高雄丸は、機関を損傷してしまう。

 新政府軍の甲鉄が、既に、宮古湾に停泊中との情報を得ると、旧幕軍は、25日の夜明けに、回天と高雄丸の二隻での作戦決行を決定した。

 25日午前5時頃、回天丸は、速力の遅い、高雄丸を待たずに、単独で、宮古湾への突入を敢行する。

 回天丸は、米国国旗を掲げて、宮古湾に突入して、甲鉄に接近。作戦通り、米国国旗を下ろすと、即座に、日章旗を掲げて、甲鉄への接舷を図った。

 元々、蟠竜丸と高雄丸が、甲鉄に接弦する作戦であったのは、回天丸が、舷側に水車が飛び出した、外輪船のため、接舷が困難だったためである。

 予測通り、並行接舷に失敗し、回天丸は、甲鉄の左舷に、右の船首を接舷することに成功する。

 一点接舷である。

 並行接弦であれば、一度に多数が、回天丸から甲鉄に移乗可能であるが、一点接舷では、一度にわずかしか、移乗できない。

 更に、回天丸の甲板は、甲鉄の甲板より、3メートルも高いため、当然、旧幕軍の兵士達は、飛び移ることを躊躇した。

 最初に甲鉄に飛び移ったのは、海軍一等測量の大塚浪次郎である。

 軍艦役の矢作沖麿を二番手に、彰義隊の笠間金八郎、加藤作太郎、伊藤弥七、軍艦役並の渡辺大造、そして、新選組の野村利三郎の総勢七名が、甲鉄に飛び移った。

 しかし、甲鉄の甲板には、既に、新政府軍が待ち受けており、七名は、銃撃に晒された。

 更に、回天丸が、宮古湾の新政府軍の艦隊から、集中砲撃を浴びた。

 甲鉄に飛び移った、七名の内、回天丸に帰還できたのは、重傷の伊藤と、渡辺の二人のみであった。

 野村は、甲鉄上で戦死したとも、撤退時に背後から撃たれ、水中に没したとも言われる。

 回天丸では、艦長の甲賀源吾を始め、十二人が戦死。相馬主計等、三十余人が負傷した。

 アボルタージュは、失敗に終わり、接舷から、20〜30分後には、回天丸は敗走し、宮古湾を脱出すると、蟠竜丸と合流し、26日に箱館に帰港した。

 高雄丸は、新政府軍に補足され、艦長の古川節蔵と乗組員は、羅賀海岸に上陸して、船を焼いた後、盛岡藩に投降している。

 1869年(明治二年)山田顕義の率いる、千五百名の新政府軍は、4月9日早朝、乙部に上陸した。

 旧幕軍は、新政府軍の上陸を阻止すべく、江差から、百五十名を派遣したが、既に、新政府軍は、上陸を終えていたため、松前兵によって撃退された。

 陸兵の戦闘中に、春新政府軍の軍艦五隻は、江差への砲撃を開始する。

 江差の砲台は、反撃を試みるが、敵艦に砲弾は届かず、旧幕軍は、松前方面に後退した。

 12日に薩摩藩士の陸軍参謀、黒田清隆率いる、二千八百名が、16日にも、更なる増援が、江差へ上陸する。

 新政府軍は、四隊に分かれ、箱館へ進撃を開始した。

 海岸沿いに松前に向かう、「松前口」。

 山越えで、木古内に向かう、「木古内口」。

 乙部から鶉・中山峠を抜けて、大野へと向かう、「二股口」。

 乙部から内浦湾に面する落部に向かう、「安野呂口」である。



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