【正義】と【平和】

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 新政府軍上陸の報告は、その日の内に五稜郭へ届けられ、土方は、即座に衝鋒隊二小隊、伝習歩兵隊第一小隊を率いて、二股口へ出陣した。

 土方は、宿泊所の市渡村で、陸軍奉行添役の大野右仲と大島寅雄に対して、味方の人数には限りがあるが、敵には限りがない。

 一時の勝利を得られても、遂には敗れざるを得ないが、「しかるに吾所に任ぜられ敗るるは、武夫の恥なり。身をもってこれに殉ずるのみ」と語っている。

 翌日の4月10日、土方の部隊は、二股口へ到着し、フランス軍人のフォルタンの指揮下、台場山に陣営を構築した。

 台場山の山頂には、本営である「上ノ台場」、更に「中ノ台場」、「通ノ台場」、「下ノ台場」など、十六の陣営が、昼夜兼行の作業で、二日間で築かれた。

 台場山の中腹は、鶉山道が通るのみで、一方は樹木が生い茂り、一方は峻嶮な崖である。

 敵は、鶉山道を進むしかなく、胸壁に守られながら、銃砲を撃ち下ろすことが可能になる、防衛には、絶好の立地条件であったのである。

 土方は、台場山西方の天狗岳にも、胸壁を設けて、前線とし、一小隊を配置した。

 防衛の拠点ではなく、敵を台場に引き寄せるための捨て石の部隊であった。

 新政府軍は、12日に稲倉石に到着すると、13日の正午過ぎ、天狗岳への攻撃を開始する。

 新政府軍の攻撃開始時、土方は、市渡村に戻っており、大島は、五稜郭へ赴いていた。

 そのため、現場に残っていた、大野の指揮によって、旧幕軍は、防衛のため、応戦した。

 大野は、土方への報告のため、騎兵を市渡村に派遣し、天狗岳を突破した、新政府軍が、接近するのを待って、台場山から一斉攻撃を行った。

 土方が、急ぎ、台場山に戻った、日没には、雨が降り出した。

 土方指揮下の旧幕軍は、弾丸が濡れるのを防ぐため、上着を脱いで、弾薬箱を覆った。

 それでも、湿ってしまった、銃弾は、懐に入れて、乾かしては、小銃を撃ち続けたのである。

 二股口の戦闘は、夜を徹して、続いた。

 そして、午前六時、新政府軍は、遂に、二股口の突破を断念し、稲倉石へと撤退する。

 戦闘は、実に十六時間に及び、旧幕軍が、撃った、弾丸は、三万五千発を数えた。

 土方の部隊は、二股口を守り抜いたのである。

 土方は、戦闘終了後、その日の内に五稜郭へ戻ると、新選組隊士の市村鉄之助を呼んだ。

 市村鉄之助は、美濃国大垣藩士、市村半右衛門の三男として生まれ、1867年(慶応三年)、京での新選組の隊士募集時に、兄の辰之助と共に、十四歳で、新選組に入隊した。

 兄の辰之助は、五兵衛新田で、新選組から脱走したが、土方歳三付属を命じられていた、鉄之助は、新選組に残って、土方に小姓として、付き添った。

 土方は、十五歳の鉄之助を、「頗る勝気、性亦怜悧」と評している。

 土方は、鉄之助に、「写真および鬢髪数根ならびに絶命の和歌一首」を託し、箱館から、脱出するように命じた。

 鉄之助は、15日に、五稜郭を脱出すると、土方の用意していた、外国船に乗り込み、日野の佐藤彦五郎の邸宅を訪れ、土方の遺品を渡した。

 土方の辞世の句は、「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらぬ」。

 既に、土方は、蝦夷地の新政府軍との戦いで、散ることを固く、決意していたのである。



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