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 1869年(明治二年)5月14日、五稜郭の榎本は、新政府軍に対して、弁天台場と共に、降伏勧告を拒絶する、返書を送った。

 同日、相馬主計は、五稜郭に赴き、弁天台場では、衆議に従うこと、それが、榎本の意に反する可能性があることを伝え、台場へ戻った。

 最早、弁天台場が、抗戦を続けることは、不可能であり、相馬は、台場へ戻ると、降伏を決意する。

 翌日の5月15日、永井は、相馬を新選組隊長に任命した。

 同日、弁天台場の旧幕軍は、新政府軍に正式に降伏した。

 ここに、新選組の戦いは、終焉を迎えたのである。

 相馬主計は、常陸国笠間藩藩士、船橋義方の子として生まれたが、1865年(慶応元年)に脱藩し、伊予松山藩に仕え、長州再征伐に従軍した。

 1867年(慶応三年)に、新選組に入隊すると、同年12月、伏見への移転に際し、「隊長附組頭」として、仮隊士を指揮する。

 近藤勇が、新政府軍に出頭した際には、近藤救出のための書面を板橋総督府に届け出て、捕縛された。

 近藤の嘆願によって、助命され、笠間藩預かりとなるが、脱出し、彰義隊に参加する。

 その後、各地を転戦し、仙台で、土方と再会すると、蝦夷地へ渡った。

 相馬は、箱館政権では、陸軍奉行添役に就任しているため、永井は、相馬を新選組隊長に任命したのであろう。

 相馬主計は、新選組の最後の「隊長」である。

 弁天台場降伏時の新選組の九十二名の隊士と十一名の歩卒の内、池田屋事件時、新選組に在隊していたのは、島田魁と尾関雅次郎の二人のみであった。

 なお、降伏時に作成された、弁台場籠城隊士の名簿では、相馬主計は、新選組「隊長」と記されており、「局長」ではない。

 近藤の死後、土方が、「局長」を称した形跡はなく、会津戦争で、新選組を率いた、斎藤も、「局長」を称した記録はない。

 新選組隊士にとって、芹沢の死後、「局長」は、唯一、近藤のみとの想いがあったのではないのであろうか。

 島田魁は、弁天台場での降伏後は、台場と青森、弘前の寺院で謹慎した後、名古屋藩に預けられ、1870年(明治三年)には、禁固を解かれた。

 島田は、京に戻ると、1886年から1900年まで、十四年の間、西本願寺の夜間守衛を務めたが、退職の一カ月後に死亡した。享年、七十三歳。

 『島田魁日記』の他、数々の遺品は、新選組の貴重な資料である。

 相馬は、降伏後、旧幕軍幹部と共に東京へ送られ、1870年(明治三年)に、伊豆諸島の新島への終身流罪を命じられる。

 二年間を島で暮らし、1872年(明治五年)に赦免された。

 在島中に娶った、妻のマツと共に東京へ戻ると、1873年(明治六年)、豊岡県へ出仕した。

 翌年には昇進しているが、1875年(明治八年)、突然、免官された。

 その後、東京に戻ると、蔵前に住むが、妻の留守中に切腹したと伝わる。

 死亡年は不明であるが、新選組供養塔に名前がないため、1876年(明治九年)以後の死と考えられる。

 新選組の戦いは、事実上、土方の死と共に、終焉を迎えた。

 弁天台場の新選組隊士が、降伏したのは、土方の死から、三日後である。

 そして、その四日後、五稜郭の箱館政権は、新政府軍に降伏して、約一年半に及ぶ、戊辰戦争は終結した

 。1863年(文久三年)3月の壬生浪士組の結成から、1869年(明治二年)5月の土方の死までの約六年、「幕末」という時代を駆け抜けた、新選組は、輝きを放ち、後世にその不朽の名を残したのである。



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