【正義】と【平和】

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 斎藤は、鳥羽伏見の戦いの後、他の新選組隊士と共に、江戸に帰還し、甲陽鎮撫隊にも参加している。

 甲州勝沼の戦いの後、新選組は分裂し、永倉新八と原田佐之助は、近藤・土方と袂を別つが、斎藤は、近藤達と行動を共にした。

 この時点で、試衛館以来の同志は、近藤、土方、斎藤の三名しか、残っていなかった。

 近藤と土方は、新選組の再起のために、五兵衛新田に向かうが、その際、斎藤に負傷者を託して、会津へ先発させている。

 その後、近藤は、流山において、新政府軍に出頭し、板橋宿において、斬首されるが、斎藤は、既に、会津にいたと思われる。

 江戸の今戸から、斎藤一に率いられて、会津入りした、新選組の負傷者は、会津藩より、天寧寺を宿所として与えられた。

 近藤の出頭後、土方は、近藤九州津のため、江戸に潜伏。

 他の隊士は、流山から、会津に向かい、斎藤達と合流したと思われる。

 恐らく、斎藤は、この時、近藤が、新政府軍に捕縛されたことを知ったと考えらえる。

 その後、斎藤達は、猪苗代湖南岸の赤津村に移り、白河方面への出陣を想定し、訓練を重ねていたと言われる。

 その途中で、北関東を転戦後、会津入りした、土方と再会する。

 1868年(慶応四年)閏4月5日、新選組は、会津藩より、白河への出陣命令を受けた。

 土方は、負傷していたため、東山温泉で、湯治生活に入り、斎藤一が、隊長格として、新選組を率いることになる。

 斎藤は、この頃には、山口次郎と名を改めていた。

 斎藤は、三代村に陣を移し、21日に白河へ向けて出立する。

 会津藩は、この日、幕府が、棚倉藩に管理を命じていた、奥州街道沿いの要衝、白河城を接収した。

 白河城は、少数の新政府軍の他、新政府の命令を受けた、二本松藩等が、守備していた。

 しかし、二本松藩等は、会津藩に同情的で、戦意はなく、無抵抗のまま、城を明け渡した。

 翌々月の5月3日、東北二十五藩が結束し、奥羽列藩同盟が成立する。

 同月の6日には、北越六藩が加わり、奥羽越列藩同盟が締結された。
 
 斎藤が、近藤の刑死を知ったのは、白河出陣の前後であろう。

 土方は、近藤を救えず、見殺しにしたことを、後悔しながら、戊辰戦争を最後まで、戦い抜いたが、斎藤の心情は、想像するしかない。

 斎藤は、近藤の流山の出頭時には会津にいたため、土方とは異なり、見殺しにしたとの観念は薄かったであろう。

 しかし、永倉、原田と別れた後も、斎藤は、近藤に従ったため、その死に無念の想いがあったことは、間違いない。

 斎藤の率いる、新選組は、閏4月22日に白河に到着すると、翌日から、白河場外南方の白坂口の守備に就いた。

 二日後の25日、新政府軍の先遣隊数百名は、白坂口の攻撃を開始。新選組は、会津遊撃隊と共に奮戦し、朱雀隊、純義対が駆けつけ、新政府軍を撃退した。

 この戦いで、板橋宿において、近藤の正体を暴いた、御陵衛士の残党である、清原清が、戦死している。

 無論、斎藤は、清原の死を知る由も無かったが、新選組は、近藤の復讐を果たしていたのである。

 翌日の26日には、白河口総督として、会津藩家老の西郷頼母が、白河城に入城する。

 新選組は、再び、白河関門の守備に就いた後に、29日には、仙台藩兵と交代し、市中にあった、脇屋本陣の柳屋で休息している。



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