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 5月1日、新政府軍は、兵力を三分して、第二次白河攻撃を開始した。

 新政府軍の参謀、伊地知正治の率いる、本隊は、多数の旗を掲げて、大軍と見せかけると、会津軍・旧幕軍の布陣する、白河城南の稲荷山に砲撃して、注意と兵力を引き付けた。

 会津藩の白河総督、西郷頼母は、白河城と他の方面から、稲荷山へ兵力を逐次、投入し、新政府軍本隊への攻撃を行った。

 そのため、手薄になった、西の立石山と東の雷神山へ、新政府軍の別動部隊が、侵攻して、占拠した。

 その結果、新政府軍は、稲荷山を包囲する形となったため、山上から、銃撃を加えて、城下へと突入し、白河城を占領した。

 会津軍・旧幕軍は、多数の幹部を失い、約七百名の死傷者を出したが、新政府軍の死傷者は、二十名程に過ぎず、新政府軍の圧勝に終わった。

 新選組は、勢至堂峠を経て、翌日には、三代村に逃れている。

 5月1日の戦いで、会津藩は、白河城を失い、会津軍は、5月3日に成立した、奥羽列藩同盟軍と共に、5月26日及び、27日に奪還戦を挑むが、敗走を余儀なくされる。

 新選組は、再び、三代村に戻り、島田魁らの負傷者は、臨時病院の福良の千手院に入院している。

 この時、松平容保より、藩主の座を継いだ、松平喜徳が、白河方面の戦況視察のため、白虎一番、二番士中組を率いて、湖南に出張し、5月29日、福良の本陣である、武藤家へ宿泊した。

 新選組に謁見が許され、6月3日には、斎藤等が出向き、9日には、喜徳自身が、千手院に足を運び、島田達に二十五両の見舞金を与えている。

 6月4日、新選組は、福良の本陣で、喜徳の閲兵を受け、6日には、再度、白河城攻撃に出陣し、12日にも、白河奪還戦に加わるが、再び、敗走して、福良に引き揚げた。

 その後、関東の制圧を終えた、新政府軍は、白河城へ、続々と増援を送っている。

 最早、奥羽越列藩同盟軍の白河の奪還は不可能となり、北上する、新政府軍は、7月末に会津東方にある、同盟軍の二本松藩を落城させた。

 湖南の村々に休陣していた、新選組と、伝習第一大隊、回天隊に湖北の猪苗代城下への出陣が要請され、8月18日に出立すると、翌日には、二本松藩との藩堺にある、将軍山の母成峠の警備を命じられる。

 土方は、6月下旬には、傷が癒え、戦線に復帰したはずであるが、新選組の白河奪還戦に同行しておらず、更に、母成峠の警備にも同行していない。

 土方は、8月17日には、福良の本陣の武藤家に留まっていた。

 土方は、既に、旧幕軍全体の指揮官の一人の立場であり、会津における、新選組の指揮は、斎藤に一任されていたのであろう。

 母成峠には、山頂に本陣、中腹に複数の陣が設けられたが、新選組が、伝習第一大隊と共に布陣を命じられたのは、山頂から、若干、外れた、伊達路に備えた、勝岩であった。

 大鳥圭介は、新選組に「人数も少なく撤布法もよろしからず」と、自ら、兵の配置などの指示を下している。

 新選組を率いる、斎藤は、この年、未だ、二十五歳。年若いためか、京の治安維持と異なり、戦場の指揮官としては、未熟な面があったのかもしれない。

 8月20日、坂下において、同盟軍と新政府軍の前哨戦が行われ、会津軍が敗走する中、大鳥の率いる、伝習隊が、奮戦し、大損害を出したが、新政府軍の進撃を食い止めた。


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