【正義】と【平和】

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 8月21日午前十時、新政府軍の母成峠攻撃が開始されると、中腹の台場が、突破される。

 新選組の警護する、勝岩の陣も背後から攻撃を受けて、隊士達は敗走する。

 午後四時には、本陣に危機が迫り、列藩同盟軍は、散乱しながら、猪苗代方面へと退却した。

 福良に留まっていた、土方は、母成峠に砲声が響くと、猪苗代方面へ向かった。

 土方は、敗戦を知ると、その夜、湖南の中地村と御霊柩峠の会津藩陣営に援軍を要請した。

 しかし、会津軍は、手遅れと判断し、若松へ戻ることを優先する。
 
 新政府軍は、母成峠を突破すると、翌日の22日には、猪苗代城下に殺到し、突破する。

 会津藩士の佐川官兵衛は、先鋒総督として、出陣し、新政府軍の若松進攻を阻止するため、十六橋の破壊を始めていたが、22日夕刻には、新政府軍が殺到し、退却を余儀なくされた。

 新政府軍は、十六橋を占領して、復旧させると、夜には、戸の口原に進出する。

 佐川は、戸ノ口・強清水・大野ヶ原に陣地を築いて、防戦し、前藩主の松平容保は、白虎隊などの予備兵力をかき集めて、自ら、滝沢村まで出陣する。

 しかし、容保は、戸ノ口原の戦いで、新政府軍が、佐川の会津軍を破って、滝沢峠へと迫ったとの報告を受けると、若松城へ帰城した。

 新政府軍は、23日の朝には、江戸街道を進撃して、午前十時頃に若松城下へ突入し、遂に会津藩は、籠城戦に突入することになる。

 土方は、滝沢峠の敗北後、優勢に抗戦を続ける、庄内藩へ援軍要請に向かったが、既に、同盟の米沢藩は降伏に傾いており、城下の通過を許さなかった。

 そのため、土方は、同盟の仙台藩へと向かうが、この時、試衛館依頼の最後の同志である、土方と斎藤の二人は、永遠の別れとなることを、予測していなかったであろう。

 なお、新選組一番隊組長、沖田総司は、3月10日に、幕府の医師・松本良順によって、千駄ヶ谷の植木屋、柴田平五郎方に匿われ、1868年(慶応四年)5月30日に死去している。

 近藤の死を知らないまま、亡くなったとも言われる。

 5月30日は、会津戦争の激戦の最中であり、土方と斎藤の許に、沖田の死の知らせが、届いていたのかは、不明である。

 土方は、近藤を救えなかったことに、斬鬼の念を感じ、戦い続けたが、沖田は、病死であるため、どのような想いを抱いたのであろうか。

 新選組は、母成峠の敗走後、塩川付近に集結する、旧幕軍に合流した。

 旧幕軍は、今後の方針を定めるため、軍議を開いた。

 この席上で、斎藤は、「今、落城せんとするを見て、志を捨て去る、誠義にあらずと知る」と、会津藩と命運を共にすることを主張している。

 会津藩は、若松城に籠城し、佐川官兵衛の率いる、会津藩兵、斎藤の率いる、新選組は、城外において、遊撃隊として、抗戦を続けたが、新政府軍の前に苦戦を強いられた。

 更に、9月に入ると、奥羽越列藩同盟の諸藩が、新政府軍に降伏し始めた。

 そのため、会津には、新政府軍の援軍が、続々と到着し、会津藩は、孤立状態での戦いを強いられた。

 9月4日、城下北西の高久村方面の守備に就いていた、衝鋒隊は、会津藩より、小荒井村の援軍派遣を要請され、如来堂村守衛の二小隊が出陣する。

 この手薄となった、如来堂の守備に就いたのが、斎藤を始め、十三人の新選組隊士と十人ほどの歩卒であった。


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