【正義】と【平和】

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 サンピエロの乱の後、サンジョルジオ銀行は、荒廃した、コルシカ島から手を引いたが、ジェノヴァは、緩やかな統治を行い、160年間の平和が訪れた。

 しかし、1729年12月、コルテにおいて、徴税を巡る、些細なトラブルを契機に、農民が蜂起した。

 バスティアは、暴徒に略奪され、以後、コルシカ島では、40年間に及ぶ、騒乱が始まったのである。

 ジェノヴァ共和国は、既に衰退し、叛乱を鎮圧するだけの力は無く、ハプスブルク家のカール6世に派兵を依頼した。

 叛乱側は、混乱を鎮めると、自治組織である、12人委員会を創設する。

 そして、1730年、革命評議会を召集すると、三名の代表を選び、ジェノヴァと交渉を行い、譲歩を勝ち取った。

 コルシカは、独立への道を歩み始めた。

 コルシカ人は、王国を建てようとしたが、「王」に相応しい人物はおらず、スペイン王のカルロス3世に、コルシカ王を兼任してくれるように要請したが、拒否される。

 1763年、ドイツ人貴族出身の山師、テオドール・ド・ノイホフが現れ、国王として迎えられた。

 その山師は、テオドール1世を称したが、コルシカ島の貧しさに失望し、数人の摂政を任命して、統治を任せると、わずか、8カ月で、島を離れ、二度と戻らなかった。

 しかし、コルシカ島は、形式上は、ヨーロッパで初の憲法を有する、立憲君主国家となった。

 1737年、フランスは、ジェノヴァと交渉して、コルシカ島への武力侵攻の了承を得た。

 ボワシュー伯爵の率いる3,000名が、コルシカに上陸したが、摂政達の抵抗と、ボワシューの病死によって、フランスのコルシカ制圧は、翌年には、頓挫した。

 しかし、四カ月後、フランスは、新たな増援4,000名と新司令官として、武名の名高い、マイユボワ侯爵をコルシカ島に送り込む。

 フランス軍の巻き返しが始まり、コルシカ側は、ゲリラ戦で抵抗するが、次第に鎮圧され、コルテに追い詰められ、降伏した。

 摂政達は、捕らえられたが、ジェノヴァへは引き渡さずに、ナポリ王国への追放が命じられた。

 1740年、オーストリア継承戦争が起こると、フランスは、コルシカ島への関心を失った。

 総司令官のマイユボワ侯爵は、イタリア戦線に向かい、コルシカ島における、フランスとジェノヴァの支配は、沿岸部のみに限られた。

 コルテは、ジョヴァン・ペトル・ガッフォーリの率いる、独立派によって、支配された。

 その間隙を突き、1745年には、コルシカ人のリヴァローラの手引きによって、イギリス、サルディーニャ及び、オーストリアの連合軍が、バスティアを占領した。

 リヴァローラは、サルディーニャ王に仕えていたため、ガッフォーリは、警戒して共闘しなかった。

 その後、連合軍が、撤兵すると、ジェノヴァはバスティアを奪回した。

 ジェノヴァは、再度、激しい、弾圧を行った。

 しかし、1746年以降になると、ジェノヴァは、二度に渡り、オーストリア軍によって包囲され、本国が、危機に陥った。

 ジェノヴァの危機を好機とし、ガッフォーリは、蜂起して各地を解放した。

 1751年に、ガッフォーリは、全権を掌握して、事実上の元首となる「将軍」という地位に就任する。

 しかし、1753年に、ジェノヴァが送った、刺客に暗殺された。

 そして、1755年、亡命先のナポリから帰還したのが、パスクワーレ・パオリである。


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