【正義】と【平和】

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 一方、信孝は、信雄と同じく、永禄元年四月に生まれたが、母の坂氏は、出自不明なほど、身分が低かった。

 そのため、正室の濃姫を除けば、信長の側室の中では、序列の最も高い、吉乃への配慮によって、信長への出生の報告を遅らせた。

 その結果、信雄が次男に、信孝が三男になったとの説が有力であるが、事実か否かは、不明である。

 次男の織田信雄は、伊勢国の国司で、村上源氏の名門、北畠具房の嗣子になると、北畠家の家督を継承した。

 三男の織田信孝は、伊勢国北部の神戸城主、神戸具盛の養嗣子になると、神戸家の家督を継承した。

 両者共に、信長による、他家の乗っ取りである。

 信雄は、天正七年(1579年)、父の信長に無断で、伊賀惣国一揆を攻めた。

 史上名高い、第一次天正伊賀の乱である。

 信雄は、伊賀十二人衆に大敗を喫し、父の信長から、書状にて、「親子の縁を切る」とまで、脅され、叱責された。

 一方、信孝は、信忠の傘下の武将として、活躍すると同時に、信長の側近として、在京し、朝廷との交渉を行った。

 信孝の織田家における、序列は、信忠、信雄、叔父(信長の弟)の信砲に次ぐ、四位であった。

 しかし、本能寺の変の直前、天正十年(1582年)五月七日に、信孝は、四国の長曾我部攻めの総大将に抜擢されたのである。

 父の信長の生前の信雄と信孝の活動を見ると、信孝の方が、信長の信頼を得ていたように感じられる。

 実際、丹羽長秀を、副将としているとはいえ、信長は、信孝を四国征伐の大将に抜擢していることを考えると、信孝を高く評価していたと考えられる。

 本能寺の変、そして、山崎の戦いにおける、明智光秀の討伐の後、信雄と信孝は、互いに、自分こそが、織田家の後継者であると主張し、譲らなかった。

 仮に、次男の信雄が、明らかに年長であれば、生母の地位の高さを考えると、信雄の優位は、揺るがなかったであろう。

 しかし、長幼の順が、曖昧な上、能力的には、信孝が、信雄を上回っていたと考えられる。

 その結果、織田家の家督相続者は、信雄に決まらなかった。

 ある意味では、その点こそが、秀吉に天下人への道を開いた、第四の好運かもしれない。

 信雄と信孝の間隙を突いて、秀吉は、信忠の嫡男、数えで、三歳に過ぎない、三法師こそ、織田家の家督相続者であると主張した。

 信長の嫡孫である、三法師の家督相続に、織田家の宿老達は無論、信雄と信孝さえ、異を唱えることができなかった。

 羽柴秀吉によって、信忠の嫡男、吉法師が、織田家の家督を相続すると、叔父の信雄及び、信孝が、その後見人となった。

 秀吉は、織田信長の四男で、自身の養子である、羽柴秀勝に、信長の葬儀の喪主を務めさせ、織田家の家臣団を掌握し始めた。

 織田家は、信雄を擁する、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興と、信孝を擁する、柴田勝家、滝川一益に分裂する。

 秀吉は、信孝が、自身の居城である、美濃国の岐阜城に、三法師を、留めたまま、安土に移さなかったことを理由に、信孝打倒の兵を挙げる。

 信孝は、一度は、秀吉に降伏するが、秀吉に対し、再度、挙兵する。

 しかし、柴田勝家が、賤ヶ岳の戦いで敗れ、北庄城で、自害すると、信孝は、再び、秀吉に降伏する。

 天正十一年(1583年)、信孝は、信雄の命によって、自害させられた。

 無論、信雄の命令の背後には、秀吉の存在があったことは、間違いない。

 秀吉は、主君の息子を殺害したのである。



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