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 越後国は、令制国の上国で、現在の新潟県に相当する。

 室町時代には、越後上杉氏が、守護職を世襲していたが、戦国時代に入ると、守護代の長尾氏が台頭する。

 長尾為景は、1507年(永正四年)上条上杉氏の上杉定美を擁立し、守護の上杉房能を自害に追い込んだ。

 為景は、定美を傀儡の守護とし、下剋上を果たす。永正の乱である。

 長尾為景は、上杉房能の実兄、関東管領の上杉顕定が、越後国に攻め寄せると、一度は、上杉定美と共に、越中国へ追放された。

 しかし、顕定の強硬な統治に、越後国の国人達が、反発すると、為景は、反撃を開始し、顕定を敗死させた。

 上杉顕定に勝利したものの、為景は、一族の上田長尾家等の国人達と激しく、対立する。

 為景の死後、嫡男の晴景が、府中長尾家の家督を継承する。

 病弱な晴景は、領内の国人達に対して、融和を図ったが、更に叛乱が勃発し、越後国は、不穏な情勢に陥った。

 1543年(天文十二年)、出家していた、為景の四男、虎千代は、還俗して、景虎を称した。

 翌年、十五歳の景虎は、栃尾の戦いで、謀反を鎮圧すると、1545年(天文十四年)及び、その翌年にかけて、黒田秀忠の乱を鎮圧し、その軍事的才能を知らしめた。

 長尾家の家臣団は、病弱な晴景に代わり、景虎を当主に擁立し、分裂の危機を迎えた。

 1548年(天文十七年)、上杉定美の調停によって、晴景は、十九歳の景虎に家督を譲って、隠居したため、府中長尾家の分裂は、回避され、景虎が、越後国守護代に就任する。

 1550年(天文十九年)には、上杉定美が、嗣子を残さずに、死去したため、越後国は、守護不在となり、将軍の足利義輝は、景虎の越後国主の地位を認めた。

 景虎は、卓越した、軍事的才能によって、敵を次々と降伏させ、二十二歳で、越後国を統一する。

 その後、北条氏康に攻められた、関東管領の上杉憲政は、長尾景虎を頼って、越後国に亡命すると、景虎は、関東へと派兵している。

 また、甲斐国の武田晴信の信濃侵攻により、村上義清が、景虎に援軍を求めると、景虎は、信濃国に出兵し、晴信と合戦に及んだ。

 この武田晴信こそ、後の武田信玄である。

 1561年(永禄四年)、上杉憲政は、長尾景虎に、関東管領職及び、山内上杉家の家督を譲ると、長尾景虎は、上杉景虎に名を改めている。

 この長尾景虎こそ、後の上杉謙信である。

 謙信は、関東管領職として、北条氏康と戦い、信濃国では、武田信玄と、五度の川中島の戦いで、激闘を繰り広げた。

 上杉謙信の死後、謙信の二人の養子、景虎と景勝による、家督相続争い、「御館の乱」が、勃発する。

 最終的に、謙信の姉の息子である、上杉景勝が、勝利を治め、家督を継承した。

 上杉景勝は、織田信長の侵攻によって、窮地に陥るが、本能寺の変が発生し、難を逃れた。

 その後、景勝は、豊臣秀吉に臣従し、五大老の一人に任じられる。

 1598年(慶長三年)に、豊臣秀吉は、上杉景勝を、会津、百二十万石に加増移封する。

 上杉氏が、去った後、堀秀政の息子、堀秀治が、越後春日山三十万石に加増移封された。

 その際、村上義明、溝口秀勝、堀親良、堀直寄が、与力として、越後国に入った。

 更に、二十四歳の秀治を補佐するため、秀政の家老、堀直政が、家老に就任した。

 四十五万石の越後国は、堀一族と、与力によって、統治することになったのである。


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